その3
とてつもなく気の抜けた開戦の合図を聞いても、川田は旗を立てた場所から動かなかった。
「……動かないのか?」
「ああ」
傍らにいる、川田と同じく野球部に所属する井上の言葉に、彼は頷く。
「戦力的に、地の利的に見てもこっちが断然有利だろ? ならこっちから仕掛ける利点は特にない」
「消極的だな」
「職業病、とでも言うか、部活でも俺はそうだろ?」
「ああまぁ、確かに」
井上はその言葉にうなずく。確かにキャッチャーである川田のプレーはいつも冷静なものだ。彼に華はないが堅実さがある。ならばこの戦い方にも頷ける。
(とは言ったけど、実際にこっちからは攻めづらいんだよな)
対角にある岩本の拠点を見据える。川田陣営の三枚の壁に比べれば、かわいそうなくらい貧相な防壁が一枚だけある。その防壁の周りには五人ほどの男子がいて、それぞれが何個かの雪玉を抱えていた。また、その防壁の後ろにももう一つの防壁を築こうとしている動きが見られる。
(やっぱり攻撃を中心に考えてるんだな)
その男子たちは雪玉を防壁の裏側に置くと、また方々へ散っていく。恐らく、雪が豊富にある場所で雪玉を作って持ってくるのだろう。
(それに比べて、こっちは……)
川田は辺りを見回す。防壁を築く為に雪を大量に使ってしまったため、周辺にはほとんど雪玉を作れるような雪が存在しなかった。そうなれば必然的に攻撃が出来る回数も減り、積極的な攻撃もしづらくなる。行動も後手に回ってしまう。当然、こうなる事は川田には分かっていた。
しかし、それでもだ。
(運はこっちに味方してくれている)
ジャンケンの九連勝による個々の能力の高さはもとより、男子の人数が奇数の為、こちらの陣営は相手側よりも男子の人数が多い。数はある分だけ力になるのだ。その上で質もこちらの方が高い。拠点に選んだ場所も、川田にとっては毎日使っている場所だ。勝手は分かっている。
問題となる雪玉の不足も、敵が解決してくれる。敵の攻撃を防壁を使って耐え、その攻撃に使われた雪玉を相手に投げ返してやればいいのだ。
後手に回る関係から、序盤は防戦苦戦を強いられるだろう。だが、こちらの旗を奪われず、最後に敵方の旗を入手すれば勝ちなのだ。序戦の不利さえ凌げれば、後はこちらのペースで試合を進められる。
(不安要素があるとすれば……倉木の事だな)
川田は目をつぶり、倉木の顔を思い浮かべた。野球部のマネージャーで、同じクラスの女の子。あまりしゃべらず、どちらかといえば大人しい性格の少女。あまり目立つ事はないが、野球部のマネージャーとしての仕事は常に申し分なくこなしてくれる。そういう陰ながら皆を支えてくれるところが健気で可愛くてしょうがない、川田の恋人だった。
しかし運命の巡り合わせにより彼女は敵方の陣営についてしまったようだ。その倉木が目の前に現れた時、果たして川田は彼女に攻撃を出来るのだろうか。また、彼女が攻撃されるところを大人しく見ていられるのだろうか。
(……まぁ、みんなには秘密にしてることだし……悩むところはあれど、そっちの方がいいか)
野球部内での彼女持ちは、自分を除くと一人しかいない。その一人は彼女がいる事を明言しているし、たまにノロケ話なんかをする奴だ。そしてそいつがそんな話をする度に、周りからは「リア充爆発しろ!」という声が挙がる。川田も一応その場のノリに合わせるが、内心は申し訳ない気持ちで一杯だった。それと同時に若干怖かった。
もしも、だ。
もしもいつも彼女持ちの人間を一緒になって冷やかしていたりする人間が実は彼女持ち――しかも同じ部活のマネージャーなんていう王道的な彼女――だと知られてしまったら。
(……何されるだろうか)
とりあえず、その日が命日になってもおかしくはないほどの地獄が待っているはずだ。例えば練習と銘打った殺人ノックなんかが有力なところだろうか。
川田はその絵図を想像して、溜め息を吐く。それからその事を考えるのをやめる。
(ま、大丈夫だろう、多分。倉木ともかち合う事なんてないだろうし)
というか倉木を雪玉飛び交う前線に送り込むような奴がいるなら、自分の手でそいつを仕留めに行く。なんとなく気恥ずかしいという本音を、みんなには秘密にしたいからという建前(建前と言っても、秘密にしたいのは本当だが)でカバーし、未だに彼女を下の名前で呼べなくとも好きなものは好きなのだ。そして好きな女の子を守ろうと思うのが男の摂理だ。
野球部キャプテン、川田。
真面目で恋愛沙汰に疎そうで、やや朴念仁なところがあろうと、好きな女の子の為には一生懸命になる普通の高校生男子である。