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宮辻古書店

作者: 葉山

 煤けた看板に屋根。ほとんどの店が閉まった商店街にある細道を進んだ先にある小さな古本屋。

 その中の埃っぽい空気の奥にどこか不機嫌そうに髭の生えた頬に手を当てて俯く彼がいた。ドアについている金のメッキが剥がれて錆びたベルはまだ一応役割を果たしているらしく、私が店に入る時に軽快に音を鳴らせてみせた。

だけれども彼は少しも私に気付くことはなく依然と眉間に皺を寄せたまま。店内を一歩踏み出すと自分の足音と床がぎしりと鳴り空気中の埃を掻き分けるように静かに響く。

すこしどきりとした。ふわりと長いスカートがどこかに引っかかってしまわないように、ゆっくりとなるべく音を立てずに店の奥へと進む。まだ彼は気づかない。


チラリと彼の手元が覗ける位置までついた。太腿の上にはがっしりとした深緑のカバーの本が乗っている。なるほど、彼が私に全く気付かないことに納得がいった。彼は昔から、ひとつのことに集中すると周りが一切見えなくなってしまう人だった。何も変わっていない。そう思うとなんだか酷く愛しく懐かしく思えてどうも口元が緩んでしまった。

右の手で口元を隠しながら左の人差し指で、彼の腕が置いてある台をコツコツと音立てて呼びかけてみるものの今までの物音にも気づかなかった人がこの程度で気づくはずもない。更に私の口元が綻んでいく。

「えいっ」

軽く癖のある黒い髪に左の手を心持ち勢いを付けて埋めると彼はびくりと肩を揺らし、両手を広げて少し上げて固まった。数秒経ってもそこから動きを見せずつまらないので彼から手を離し顔を覗き込むと、バサバサと落ちていった本を見つめながら固まりまだ何が起こったのか頭がついていっていないようだった。


「こんばんは」

そう声を掛けると彼は恐る恐る顔をあげる。そして私の顔を見るなり大きく目を開け口をあんぐりとさせた。そのあと唇を動かしたが声は出ていなかった。息だけが漏れて歯がぶつかるとかちりと音を立てた。

なんだかおかしくて笑いが溢れそうになる。

こんばんは、もう一度そう言おうと思った。でも私が言葉を発するよりも彼の声が出てくる方が早かった。

「…おい、まさかお前が来るなんて、嘘だろ」

ちょっと待てよ、なんてぼそぼそと零しながらこちらは見ずに立ち上がる。手を腰に当てて狭いスペースでうろうろ。そのうちまだ拾っていない本に足を引っ掛けてよろけ出す始末。笑いを堪えるなんて出来やしない。クスクス笑っているとちろちろこちらの様子を伺うのだがちゃんと顔を見せてくれない。

「ごめんごめん、えらく動揺してたみたいだから面白くって」

まだ少し笑いは残るもののまっすぐ彼を見つめて言う。溜息が聞こえた。彼はキッと睨むように振り向いてまた小さく溜息を吐いた。

「やっとこっち見た」

ちょっと顔青いよ、ご飯食べてんのなんていいながら頬に手を伸ばした。届かない。彼の細い指に大きな掌に手首を掴まれてそっと、手を台に置かれた。ああもう隈までできてる。でも少し擦れた赤さも見えるような。

「辻原さん照れてるでしょ」

「そんなわけないだろうが。いいからとりあえず、座れ。そこに椅子あるだろ」

彼と台を挟んで斜めのところに小ぶりの丸椅子があった。薄く積もった埃を払う。ちょっと咳き込む。これ座った途端に壊れたりしない?と尋ねるとあれから太ったんなら壊れるかもな、と言われた。何も反論しないことにした。


「なんでここに来れたの」

椅子に座ってから手が触れる。彼は台におでこをくっつけて話す。手がゆっくりゆっくり包まれる。じんわり温度が伝わって目元が熱くなる。落ち着け、落ち着け。深く呼吸をしたら彼の問いにどう答えればいいのか余計にわからなくなってしまって、でも重い沈黙に耐えられなくて無駄な時間稼ぎをする。

「…泣いてるでしょ」

相変わらず暖かい手。

「うるせえ」

握られている手が痛い。

「否定はしないんだねー」

まともに彼が見れない。

「だからうるせえって」

答えろよって掠れた声で呟く彼がとても小さく見えたように感じた。また、沈黙。

まだ泣いてなんかない。言わなきゃいけない。

「それがね、わかんないんだよね」

問いの答え。わかんない、か。繰り返して彼が呟く。うんとしか言えなかった。


でもさ、って少し間が空いてから続ける。

「すぐ忘れられるように夢だったことにしておいてよ。ずっと覚えていて欲しいけど、私のこと忘れて欲しくないけど、それで辻原さんが傷付き続けるのはなんだか申し訳ない気がするからさ。今日会えただけでいいや。もういいや。満足だ」

そう言って握られていた手を離した。彼はまた泣き出しそうな顔になる。

だめだ。

今まで彼のこんな顔なんて見たことがなかった。見せることなんてなかった。それから彼は何も言わなかった。嫌だとか、わかったとか、なんにも言わなかった。強がってる。私もしばらく何も言わずに頭を撫で続けた。すると落ち着いたのか彼は私の左手を掴んで小指立てて、とそれだけ言った。言った通りにすると彼も左手の小指を立てて絡めた。

「指切り?」

そ。彼が答えたので私は指を曲げた。

「今日のことは夢だったことにする。そこは守る。だけどお前のことは忘れないから」

「いやいやだめでしょ」

そう言ったけど彼は何も言わずに手を小さく振った。心の中で唱えているらしかった。

「もう指きり終わったから変更は無しな」

まあ、いいか。

「はいはい」



「ねえ、そうだ、言いたいことあったんだけどさ」

「おう」

「正直この髭似合わないよね」

ちくちくする髭を撫でてふふ、と微笑む。

「ばっ、かお前そういうのは早く言えよ」

頭を掻きながら恥ずかしさを大声で誤魔化すように言った。

「あ、そうだあともう一つ」

次はなんだよと顔をあげた。

「この本屋の名前って、」

そこまで言うとぼぼぼっと火が付いたみたいに一気に彼の顔も耳も手も全て真っ赤になった。なんとまあ。まあまあ。分かりやすすぎでしょうよ辻原さん。

「やっぱりかー」

はははって笑いながら立ち上がってくるくる回った。

「そっかー私の名前入れてくれたのかー、辻原さんは案外可愛らしいことするのねえ」

頬の緩みが収まらなかった。同時にさっきまでの緊張がなくなったからか涙までぼとぼと出てくるしできっとひどい顔だろう。彼はずっと顔を抑えて俯いてる。笑いも、止まらない。

「う、うるせえ好きで悪いか!」

いきなり彼が立ち上がって真っ赤な顔でそう言い放ったもんだから少しよろけた。びっくりして彼の顔をじっと見つめるとだんだんと彼の目が泳ぐ。そしてそのまますとんと椅子に座った。辻原さん、そう呼んだらゆっくりと顔を上げた。

「ものすごく嬉しいです」

そう言って笑ったら彼も照れくさそうに笑った。


**


「…店長?」

後ろから声がした。また驚いて肩が揺れた。振り向いてみるとのれんを手で押さえて壁に寄りかかり怪訝な顔をしたバイト。げ、なんて言葉が思わず漏れてしまった。

「げってなんですか。手帳忘れたから取りに来たらいきなり店長の叫び声聞こえてくるし何してんすか」

なんでもねえよって吐き捨てて宮澤がいる方にまた振り返るものの、もう、誰もいなかった。ああそうかってもう行ったか、そう思うとまた涙が出そうだった。不安そうな顔、ましてや泣きそうな顔なんて見せたことがなかったのに。思い出すと更に目元がひりひりする。バイトのやつはまだなんか言ってるけど何も入ってこない。

なあ宮澤、忘れて欲しいなんて言わないでくれ。

「おい、もう店閉めんぞお前も早く帰れ」

「えっ、でもまだ閉店時間じゃ…」

「はいはい帰った帰ったー」

ばしんとバイトの背中を叩いて店の扉の鍵を閉めるとピカピカのベルがチリンと音を立てる。後ろで何か文句を言っているようだけど気にしない。


やけに温かい小指をさすっていつお前のところに行けるのか考える。追ったらきっと途轍もなく怒るだろうから、自然とその時になるまでここで時間を潰すことにしよう。またお前が来てくれるかもしれないから。

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