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食べているコンビニの弁当が不味いと思いだしたのはいつからだっただろう。
友達からのメールが面倒だと思いだしたのはいつからだっただろう。
勝手に伸びる爪が気にならなくなったのはいつからだっただろう。
髪に寝癖がついてても気がつかなくなったのはいつからだっただろう。
怒られてるのか、笑われてるのか、分からなくなったのはいつからだっただろう。
昨日の朝と一昨日の朝の区別がつかなくなったのはいつからだっただろう。
いつも誰かに笑われているように思いだしたのはいつからだっただろう。
頭の中に私以外の人がいるんじゃないかと思いだしたのはいつからだっただろう。
私は誰かから狙われてるんじゃないかと思いだしたのはいつからだっただろう。
私は今何をしているのか、分からなくなったのはいつからだっただろう。
ちらちら横を見ると、私と同じように疲れた顔をしてスーツに着られてる人々が、今か今かと時間が過ぎるのを待っていた。もしくは、時間が過ぎないようにと、待っていた。
私の視線をうざったく思った知らない人々は訝しむ。目が合う。目をそらす。上空を見る。飛行機を見つけた。ヘリも見つけた。光る。光る。
私は今日こそ殺されるんだと思った。今日こそ、今日こそ。
本当はもっと前から、殺してほしかったんだ。私は。赤信号が青に変わる。
歩く。せかせか歩く。別段急いではいないけれど。後ろを向くのが怖かった。叫びたい。怖くて叫びたかった。
でももう少しだけ、殺してほしく無いんだ。少しの用事を終えてからが良い。空気を読んでほしい、私の命を狙ってる人。
さっさと角を曲がる。誰かが自分とすれ違って周りに風が起こる。商店街に入る。私の勤めてる文房具屋に向かう。いつもと違ったところと言えば、歩きながら鞄に入っていた退職願を取り出したことだけだった。通り過ぎてく商店街に並んでいる店々は、ガラガラと騒音を立てながらシャッターを開け、シャッター通りを消していく。朝だ、今は朝だ。
ようやく就職できたのにあんたは、と何も分かっていない両親は言うんだろう。と、いつからか予想していた言葉がまた頭で再生された。頭の中の両親に言われたって、もう何も変わりはしない。ましてや、頭の外にいる両親に言われたって。
“何も分かっていない”。何だろうこの言葉は。確かにいつかの私は、こんな言葉を何も分かっていない両親に言った。私は漫画家になりたかった。なのに、なのに。何も分かっていない。
逃げたのは自分だ。何も分かっていないのは自分だ。多分そう分かってしまったから、こうなってしまった。私の目の前に広がる道は、どれも間違いに見えてしまう。いや、それとも、どれに進んでも結果は一緒、死んでしまうということが、心の奥で分かっているからだろうか。
目的の場所、足を止める。ゆっくり店を見上げ、またせかせか歩きだす。とっくに上がっていたシャッター。見慣れた店構え。文房具の配置。真ん中の通路を突っ切ると、レジカウンターの後ろにのんびり座る店主はようやく私に気がついた。
微笑う。それは、嘲笑っているのか。今の私にはどちらも一緒だ。文房具屋の店長に挨拶も何もせず退職願を叩きつけた。
えっ、と言ったのだろうか。もしくは名前を呼ばれたのだろうか。何も聞かずに、何も言わずにそこから立ち去る。あと、やることは一つだけなんです。殺される前に、私がやりたいこと。やらなければいけないこと。
文房具屋から出て、いち、に、さん、と子供の時のように、分けられたタイルの上に足を乗せて数える。さっきよりもゆっくり、歩幅を広げて。よん、ご。
そこで立ち止まる。大きく息を吸い込んだ。その間、一人、二人、私を通り過ぎた所で、私は叫んだ。あー、でも、うー、でもない。私にも誰にも何と言ってるか分からない、自分の耳さえ劈くような、ただただ声を大きく出して、走り出した。そんなに多くない通りすがりの人々が振り返ったり避けたり。私は完全に変人だ。
これでいい。それでいい。ヘリからだか飛行機からだか高いところからだか知らないが。これで私を撃ち殺すなんてことはできないでしょう。こんな注目されている人間を撃つのは、注目されていない人間を撃つよりも難しくなる。よりたくさんの人間の目が高確率であなたを見るでしょうから。
お目当ては歩道橋だった。青い錆びれた歩道橋。下には朝だから、車が結構数通る。バスだって、自転車だって、人だって。階段を駆け上がる。息なんてするのを忘れた。もともと、息を止めるつもりなんだから、別に息はしなくていい。どこに繋がる階段か、あなたにも分からないんだから。
歩道橋の真ん中で立ち止まる。声を止める。何だか周りが騒がしい。歩道橋の下からも、横からも、後ろからも。そりゃあそうだ。変人が、歩道橋の真ん中で、歩道橋の縁を掴んで、下を見ているんだから。やることったらただ一つでしょう。あなたが考えているのと、多分みんなが考えてることは一緒。そして私も。
でも良かったでしょ。あなたの手を煩わせないで済むんだから。ラッキーって思ってください。
上を見上げる。ヘリと飛行機はもういない。じゃああなたはどこから狙ってるの?
――分かってた。うるさい。やめて。気持ち悪い。分かってた。
最後の最後で、私は私に戻ること。
今ならコンビニの弁当がおいしいと思うこと。
今なら友達からのメールにすぐ返信すること。
今なら伸びきった爪がすごく気になること。
今なら鏡を見て髪に寝癖がついてることに気づいて、直したくてうずうずすること。
今なら怒られてるのか、笑われてるのか、そんなものはすぐに分かること。
今なら昨日の朝と一昨日の朝がどんな天気だったか分かること。
今なら人のことなんて気にせず歩けること。
今なら私の中の天使と悪魔に見分けがつくこと。
今なら誰かから狙われているかなんて空想上の話だと自分を笑えること。
今なら私は、今何がしたくて、何をしようとして、どうなるのか、分かること。
今か今かと四方八方から待ち望む観衆に笑う。さぁ、私の終わりです。見てください。そう言わんばかりに、前を見た。
私は最後まで『おかしくなって自殺した』という、自分の中で描いたストーリー通りにはうまくいかなかった。そうなってくれれば、自分に意味が持てたというのに。と、自覚してしまったから余計に虚しくて、頭より体が先に動いた。
歩道橋の縁に足をかける。自分が轢いて、跳ねないようにと、下を走る車は猛スピードで走り去っていく。
小さな頃の私は、こんな終わりを漫画で描いたことはなかった。誰かに恋焦がれ、失恋して涙を飲んだり、でも最後には二人で永遠の未来を誓い幸せになる話だったり、はたまた泣いても立ち上がって、貶されても立ち上がるような、そんな前を向いた話だったりと、いつだってそんな話ばかりだった。今の私が味わったことのないストーリーだった。
縁の上に立ちあがった。観衆は、どよめく。私の終わりは、漫画家で命を終えるものじゃなくて、私が自分を諦めて勝手に終わらせる命です。観衆が駆け寄る、その前に私は。
両足で空を飛んだ。
ごめんね。呟く。落ちていく。観衆の声がした。車が近づく。目を閉じた。
小さな私へ。ごめんね。漫画家になれなくて。絵を諦めて。自分を諦めて――
落ちていく、そんな時、泣いているような声がした。
『もう僕なんていらないんだ』
――こんな私なんて、誰も必要としないの。
『ごめんね、堺くん』
――ごめん、ごめんなさい。
『もう、無理だ』