つかの間の善戦
三月二〇日 台湾ではは久しぶりの雨だった。どんよりとした雲が空に広がりパラパラと小さな水滴が断続的に振り続ける。小雨である。その雨の中を台湾防衛第1連隊と台湾民間部隊が歩いていく。進路は北であった。
〇九〇〇 泥が足を重くする。しかしドイツ・共産党軍は足をただただ前に進めた。連日の戦闘で足はガタガタになり体の節々も痛み出している。おまけに増援もないため食糧事情などは悪化の一途を辿っていた。
一二〇〇 「いくらなんでもおかしい」北部攻略軍は口々にそういった。いくら進んでも日本兵の姿が見えない。「航空爆撃を行うため同士打ちを避けるためか」と思ったが空からは雨がポタポタと降ってくるだけで爆弾が降ってくる様子はない。まさしく平和そのものであった。
一四〇〇 「海軍の船は本日到着かね」「はい三月二一日〇時〇〇分から作戦行動に映るとのことです」それを聞いて「また潜水艦に・・・」という言葉が頭をよぎったが不吉なので考えないこととした。
一五〇〇 一方大陸方面でコヒマ攻略に着手し前線で奮闘している第39師団は右方から攻撃を行い敵の激しい反撃を受けながらも退路の遮断に成功し敵の士気を大幅にそいだ。とはいえ油断してはならないインドとビルマの周辺は正規の軍を除く不規則軍などを含めればかなりの数に及ぶからである。
二一〇〇 この日台湾に上陸した北方攻略軍は泥に足を取られながら先頭の600名の兵士は二五キロもの進撃を行った。敵の抵抗が全くないためである。雨もやんだため簡易な陣地づくりに着手した。といってもタコ壺陣地と塹壕である。それも非常に適当であったが長期戦など全く考慮していないため当然といえばそうとも考えられる。
二三五〇 夜中台湾防衛隊から指示された通りの場所に砲撃がくわえられるように主砲を構えている戦艦の姿があった。インド派遣から帰路についた金剛である。現在在籍中の連合艦隊の戦艦の中での一番古参物である。
しかし防護巡洋艦古戸とは比べもにならないほどその破壊力は凄まじい。艦橋では田中艦長が少し前、豊田副武が「戦艦一隻は三個師団に相当する」・・・と言っていたのを思い出した。
「水偵が目標地点上空に到達しました」台湾領土上空では水偵が2機上空で旋回していた。
「では作戦行動に移る、照明弾投下」水偵の翼下にあった照明弾は切り離されると昼を思わせる光量を出しながら陸地を照らし始めた。
擬音を使うならヒュルルルル・・・とゆっくりと照明弾が落下する音が陸地で聞こえる。まばゆい閃光に包まれるのと同時に度肝を抜かれる砲声が海上に轟いた。
九発の火柱が北方攻略軍の前線陣地に立ち昇った。兵士は爆風で宙高くまい上げられた。 地面に叩きつけられると体は豆腐のように潰れ血肉を周囲にぶち撒けた。骨という骨はくだけ手足は飛びまわった。ヌルヌルとした体液が地面の泥水と交わる。黒焦げた場所には四~五メートルもの巨大な穴が空き直撃した場所にいた兵士は赤黒く染色されたススに成り果てていた。もはや跡形もない。
紅蓮の炎で覆われ台湾北方攻略軍の先遣隊とその陣地は壊滅した。元々陣地と言えるほどの立派な整備をしていなかったが数時間の兵士たちの努力は水の泡となった。
1時間後戦艦部隊の砲撃は終了した。が、今度は別の砲声が聞こえてきた。
「今度は何だぁ」榴弾砲が先遣隊残党軍の陣地で炸裂した。台北にあった旧式の41式砲を日本軍が運び込んだものだ。北方攻略軍がこの1日で前方に急接近したため台北から6時間かけて運んだだけで射程距離内に入れることができたのである。
さらにこの後、白兵突撃を敢行し日本軍は一夜にして先遣隊四〇〇名を死傷させ、一〇〇名の捕虜を得るに至った。さらにこの後も勢いにのり反撃を開始し、三月二五日までに北方攻略軍を二五キロ押し返した。北方攻略軍は死傷者一〇〇〇名もの被害を被り遂には投降するものが続出した。
コヒマ攻防戦もこの日勝利が確実のものとなり日本軍は南方へと兵を進めた。イギリス軍の奇襲隊も勢いをなくしていた。
三月二八日 未明、サイパン島上空に米軍偵察機が侵入。さらに翌日未明に爆撃を行なう。ただし被害は無し。
同じく二八日 長崎湾口付近にて米軍の潜水艦が民間の商船を雷撃し沈没させた。
米軍の挑発や攻撃は日に日に増していった。さらに帰投途中の金剛も雷撃を受けるがこれは無事回避する事ができた。
そして四月に入り米軍の通商破壊作戦は激しさを増していった。その中一つの喜報が入った。それは台湾にて北方攻略軍が戦意喪失し南方部隊へと合流するため撤退したというものであった。
七夕 願い事:寝たいときに寝れますように
追記(14日):12日以降のネットの不具合並びにPCウイルス駆除による作業でのテキストデータの損失により次作の更新予定日を21日とさせていただきます。すいません。