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戦艦越後太平洋戦記  作者: 賀来麻奥
慢心の代償
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1938年

 1938年 後に米国西海側海戦と呼ばれた海戦を持って敗北を喫した日本海軍は1月の6日戻ってきた。様態が心配された嶋田長官は1月中にはある程度良くなったが、職を辞して連合艦隊司令長官は豊田副武中将が任命された。最後嶋田が残していったのは自嘲的な笑いだった。



 中国戦線はソ連軍は5個師団といくつかの旅団しか配置せず中国軍も小規模ながら反撃をしていた。日本側も重慶を占領してからというもの、動きが少なくなりゲリラ攻撃に少しずつ消耗を繰り広げるのだった。

 チハの砲弾もまた不足していた。そもそも装備している88ミリ砲はドイツ軍が第1次世界大戦わずかに第1線で使用し、史実では第2次世界大戦中アフリカ戦線で対戦車砲としても利用された物の元型とでも言えるものを三門輸入して簡単な修正をして、オリジナルより威力は劣るが完成させた。もちろんのことライセンス購入はしている。

 ただしヴェルサイユ条約で新兵器開発が禁止されている時でもドイツ軍はこの88mm砲を進化させ続けたが、これはまた後で述べよう。


 

 さて戦線の問題は中国の方面だけでなかった。じりじりを被害を出させてくる潜水艦での攻撃だった。敵はUボートである。場所はインド方面である。


 イギリス軍はこの地区でインド独立軍に並び日本軍と欧州方面の情勢に基づき海軍力はこの地区からは撤退させていた。


 空軍はイギリス軍は遅れを取ったがすピットファイアの量産でドイツ軍戦闘機と対峙していた。ドイツ軍もこの年からBf109だけでなくFw190も運用を開始した。


 インド洋では日本軍の小艦艇と輸送船が航海していたがそれをドイツのUボートが仕留めていた。そのドイツ軍側でも大きな問題に直面していた。


 アフリカ戦線にまで手を出していたドイツ軍だが、アフリカ戦線に送っているのは主に設立用の部隊しか送っておらず、正規軍は2級兵士で斥候部隊が多少いるだけだ。普通に考えれば対ソ戦と対英戦(小規模な空戦・不意を付いた数十機での奇襲など)に加えてアフリカ戦線などと3方面同時展開作戦など出来たら第1次世界大戦でドイツ軍が負けるはずがない。


 まあ最初の作戦が失敗したせいでもある。フランス軍フランス国土を8分の7の兵力で大きく迂回し

スイス国境に追い詰めて殲滅しようという作戦だったが、なぜか参加兵力を直前に3分の1に減らしたため長期戦となってしまった。これをシュリーフェン・プランという。



 それはともかく、ドイツ軍を脅かしているのは中部アフリカを中心とした部隊である。猟銃などで武装した貧弱なものだが、ドイツ軍の兵力の少なさを見越している。アフリカ開放軍と自称しているこの部隊は最初1000人程度だったが今では4000人に増加している。



 そして日本国内だが・・・大本営発表の゛転進゛はあまり気にかけていないようである。


 日本海軍は機動部隊の再建とインド洋の警備の強化という2つの課題をもっていた。



 1月も下旬に差し掛かった1月25日


 

 アメリカ軍は本土蹂躙の屈辱を晴らすためにも早くもアリューシャン諸島の奪回をすることが目的とされた。


 アメリカ海軍は今回就役した新鋭戦艦モンタナ、オハイオの2隻と駆逐艦がマッカーサー率いる輸送船団の上陸が2月に行われることとなった。


 一方の日本軍はそこには手が回らなかった。

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