重慶包囲作戦
日本が南方作戦の主導権を握ったころ欧州方面ではヒトラー主権のナチス・ドイツがイギリスに必死の航空攻撃を仕掛け、Uボートでの輸送船破壊によりアメリカがイギリスに送った物資の内無事に届くのは5分の1から4分の1という有様だった。だからといって南方で暴れている日本をこれ以上野放しにしておけば後々面倒なことになるだろう。最もルーズベルト大統領は日本など本気を出せば一瞬で潰せるとさえ思っていた。
イギリス上陸は目前と思いながらヒトラーは子供のようにわくわくしながら待っていた。イタリアでもファシズム政権のムッソリーニが戦争の準備をせずに参戦しようとしていたが、国内や軍部などから反発があり準備をするまで一切こちらからの戦闘行為を行わないと決意した。
そしてソ連は10個師団をポーランドに配置して全力で中国攻略の野望を抱きながら攻撃を続けたが、戦車部隊のみが突出していたため最初はなすすべなく負けていたが火炎瓶を使用して100輌の損害を被り補給路も伸びきり一部の戦線を除き事実上膠着していた。
日本もまた60万の兵力で全土の占領は負荷と判定したため中国を屈服させる手段に出た。そこで日本軍は重慶までの地区をソ連軍と共同に包囲網を作成して戦闘意欲を失わせるというものであった。
すでに南京まで迫っている中国軍が撤退するのは恐らく重慶だろう。追撃戦をしていればソ連がいくら兵を進めているといっても奥地に誘いこまれそこで後方を断たれては前線に孤立してしまう。そこで提案されたのがこの重慶包囲作戦だったのだ。
7月11日 第3師団、第9師団第13師団、第16師団、第10族団を中心とした約12万名の部隊が南京を占領した。南京の城門を97式戦車の8センチ砲で吹き飛ばしながら進撃したため比較的早く進撃が出来た。
そしてこの進撃で戦車の燃費が悪いという問題が浮上した。装甲は側面は脆かったが上面であれば7,7ミリなど弾き返せるため問題ではなかったが、航空用エンジンを改装したためこういうところで問題が浮上したのであった。陸軍はこれに対応すべくディーゼルエンジンへの改装をしようとしていた。
同時にこのころ97式重爆撃機が完成し中国に対する爆撃が今まで以上に活発に行えると思われた。
7月15日 香港より進撃した日本軍の150ミリカノン砲が一気に咆哮し、重慶の80キロ手前で落下し炸裂した。ソ連軍は戦線を縮小しており、一時南まで突っ切るように伸びていた戦線が西安まで下がり兵力を整えた。ソ連製のBT-7Tが西安より成都まで一気に進撃した。日本兵は占領地区に台湾より義勇兵を引き抜きそこに配置させ、主力の師団などを武漢へ向かわせた。チハを先頭にして進撃した。チハ車の中には改装さを求めて一部は25ミリ鋼板を外していた。そのため速度41キロで進撃が出来た。
7月18日 南京などからも部隊を引き抜き行われたこの作戦に中国は対応しきれず敗走を続けた。さらに重慶前に行われる砲撃により中国軍は香港から来るとこちらに防備を固めていたせいもある。
7月20日 ソ連が重慶20キロ地点まで前進した。さらに日本航空隊の執拗な空爆により重慶は戦闘力をやや弱めていた。しかし米軍装備の新鋭軍を30万人ソ連用に重慶に送られていた。中国兵は重慶へ逃げようとしたがソ連兵が既に周りを囲んでおり日本軍から逃げてきた軍はほとんどが殲滅された。
7月22日 日本戦車部隊4両がと1000名がソ連軍と合流した。これにより中国は2つに分断されたのである。ただ重慶の総合兵力は60万もいた。航空機300機、砲1000門となっていた。ソ連は現在30万と戦車200両と砲が2000門。日本軍は1個戦車連隊と第16師団と他所属の2個連隊の総兵力2万5000と戦車60両と砲が100門という有様であった。他の部隊は後方にいる中国兵の掃討に手間取っているのだ。
そのころ米軍では空母の量産体制に入っていた。12隻が来年から続々と付く予定であった。気がかりなのはそれまでに日本軍が攻撃をしてこないかだ。アッツやキスカそしてミッドウェーまで占領された今いつ攻撃を受けてもおかしくは無い。たのみの綱は潜水艦のみだった。
だが日本軍は潜水艦に対するレーダーの作成に取り掛かっていた。そしてこの日試作機を乗せた船が建造された。商船を改造した20ノットの船にこれを装備したところなんと18ノットまででなら潜水艦のスクリューの聴音が可能だった。
日本海軍は大至急実用体制に入ってほしいと要求した後大破した日向戦艦にある改装を命じた。
7月30日 重慶をソ連兵50万、日本軍30万の大兵力が包囲した。果たして戦況の行き先は?
重慶包囲作戦は成功した。そして水中聴音機も試作機まで完成。これから戦況はどうなるのか?