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戦艦越後太平洋戦記  作者: 賀来麻奥
侵攻と暗雲
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狂乱の国々

 戦艦越後以下の艦隊はさらに西側の海域に移った。台湾のやや南側の西海域に海南島という島があるのだが、連合艦隊が移ったのはその中間地点である。地理が得意な方はお分かりいただけただろうか?

 そう香港だ。ちなみに最初砲撃していたのは今で言う深山高速道があるところであり越後の41センチ砲が12発 20センチ砲60発が打ち込まれただけだった。


 

 ちょうど深山を砲撃したのは3月16日のの11時いや二三〇〇と記しておくべきだろう。


 香港を砲撃したのはその後30分後だ。

 対艦陣地などが木っ端微塵に吹き飛んだ。兵士は恐れをなして早くも撤退を開始した。



 3月17日 〇〇二〇 高速輸送船より上陸用舟艇が下りていく。また巡洋艦に300名ずつ、戦艦に400名ずつ乗っていて合計7000名と九七式戦車30輌と1400名の工作員 12機の96式戦闘機 500門の火砲等があわただしく揚陸されていった。

「日本兵が香港に侵攻したぞ」「おい聞いたか台湾に面している湾も砲撃を受けてんだろ南方はもう日本兵で埋まってるよ」「上からソ連下から日本進むのはどこだ」

 中国兵がパニックに陥っているのを尻目に広東を3月19日に占領した。また台湾では現役兵士1万人を高速輸送船でこの地方に送り、台湾内陸では義勇兵を駆り立てられ、台湾独立義勇軍を編成した。



 3月19日 上海や青島にも部隊を送り込みそこに関東軍が来て中国兵を簡単に駆逐してしまった。日本兵は早くも南京にも迫ろうというほどの勢いだった。


 また南方ではアメリカ太平洋艦隊の燃料がすべて1時使用不能煮まで追い込まれているため連合艦隊の海といっても過言ではなかった。


 そして植民地政策だがまず硬貨が問題だ。日本の金を渡しても向こうには通じないのだ。そのため軍券といわれるのを発行してこれをお金の価値と同じものとするなどというものであった。果たしてこの政策は正しかったのか?


 このときの歴史を振り返りある人は語る「日本が中国と戦う理由が分からない」と。


 1937年3月21日 ついに全世界が狂ったことを証明すべくことが起こった。ドイツ第3帝国がソ連と不可侵条約を結びポーランドに侵攻。ドイツ軍がⅠ/Ⅱ号戦車と共に大攻勢に出た。

 このⅠ号とⅡ号はソ連に技術提供の変わりに生産させてしてもらった兵器であり、主砲が機関銃というもので、装甲が13ミリ、速度も37キロと97式戦車に劣っているが、軽戦車であり(九七は中戦車)本命のⅢ号戦車のつなぎのための戦車だったためだ。

 そのⅢ号戦車は政策が遅れたらしい。ヒトラーがあせった理由はアメリカが今まともに動けないと見抜いたためである。そうすればイギリスなども黙っているだろうと考えたのだ。

 そもそもヒトラーがポーランドを攻めた理由はポーランドにある領地の併合を要求したのに、ポーランド側がこれを断ったためである。


 来るべき時は来た。ポーランドはドイツ軍の火砲で目を覚まし、戦闘機が乱舞する光景を見るなり上空から爆弾や機銃を受け、戦車で攻撃を受けて1日遅れでソ連までもが侵攻してきたからである。

 こうして1ヶ月でポーランドは壊滅した。ドイツの被害は2万ときわめて少なかった。 

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