陽 だ ま り の ミ カ
日常の中にある、ほんの小さな光を描いた短編です。
ミカという子の、ささやかな優しさが誰かの心に届けば嬉しいです。
ミカは、だいたい前ぶれもなく現れる。
扉を叩くわけでもなく、名前を呼ぶわけでもない。
気づくと、そこにいる。
春の午後、窓辺の光が音もなく畳へひろがっていくみたいに、
いつの間にか澪の生活の隅へ入り込んでくるのだ。
「ねえ、今日は少しだけ元気?」
その日も、澪が湯のみを両手で包んだまま黙っていると、
ミカは机をのぞき込み、いかにも重大な発見をした顔で言った。
「お茶がまだ温かい。ということは、絶望は本物じゃないですね」
「何ですか、その判定」
「ミカ判定です」
澪は吹き出した。笑うつもりはなかったのに、先に頬が緩んでしまった。
ミカはそういうところがある。大きなことは言わない。
ただ、息が詰まりそうな空気のなかへ、すっと穴をあける。
「外へ出ましょう」
「急ですね」
「急じゃないです。今日は、あの店の最終日なんです」
あの店、というだけで澪にもわかった。
商店街の端にある、小さな文房具店「雨の朝」だ。
色あせた便箋、万年筆のインク瓶、角の丸い大学ノート。
棚のどこを見ても、少し前の時間がそのまま置かれているような店だった。
店に入ると、紙の匂いがした。乾いた匂いではない。
指でめくれば音が鳴りそうな、やわらかい匂いだ。
店主の治は、段ボール箱に帳簿をしまいながら、
「いらっしゃい」といつも通りの声で笑った。
「今日は、お手伝いに来ました」
ミカは胸を張ってそう言うと、勝手知ったる様子で
棚の端に積まれた絵葉書を整えはじめた。
治はあきれたように笑いながらも、その手つきを止めさせなかった。
きっと何度も、こうしてミカに救われてきたのだろうと澪は思った。
「ミカさんは、働き者だねえ」
「えへん。でも、お駄賃はコロッケパンがいいです」
「文房具屋でそれを言う人は初めて見たよ」
店の奥から、近所の小学生の女の子が顔を出した。
自由帳を抱えていて、表紙には大きく猫の絵が描いてある。
ミカはすぐにしゃがみ込み、
「今日の猫、ずいぶんりりしいね」と本気で感心した。
女の子は照れながらも、次のページ、また次のページと見せる。
澪は、気づけば自分までその輪のなかに引き入れられていた。
昼を過ぎるころ、店の前に陽が差した。
ガラス戸の向こうに、細い光の帯ができる。
その場所へ、いつの間にか三毛猫が座っていた。
ミカは「ほら、店長代理が来ましたよ」と小声で言って、
誰よりもうれしそうに笑った。
笑い声はたしかに店のなかを明るくした。
けれど夕方が近づくにつれ、治が空になった棚を一枚ずつ拭いていくたび、
そこにあった時間まで少しずつ畳まれていくようで、
澪の胸には静かな寂しさが降りてきた。
帰り道、ミカは珍しく先を歩かなかった。
商店街を抜けた公園のベンチに腰を下ろし、
両手で紙袋を抱えたまま、黙って空を見ていた。
袋のなかには、治にもらった最後の絵葉書と、
細い青色の万年筆が入っている。
「疲れましたか」
澪がそう声をかけると、ミカは少し考えてから首を振った。
「ううん。ただね、なくなるって、やっぱり少し苦手です」
笑って言うのかと思った。
けれど、その声は驚くほど静かだった。
「店が閉まるから?」
「それもあります。でもね、場所がなくなると、
そこにいた人の笑い声まで、行き場がなくなる気がするでしょう」
ミカは膝の上の紙袋をそっと撫でた。
「わたし、小さいころから、さよならのあとが苦手なんです。
みんな帰った部屋とか、祭りの次の日の広場とか、
そういうのを見ると、急に静かになってしまって」
そこでミカは笑おうとした。
けれど、その笑みはいつものようには跳ねなかった。
「だからかな。つい、にぎやかにしたくなるんです。
誰かが黙り込んでいたら、何か言いたくなる。
今日もミカがいますよ、って、言いたくなる」
澪は返事を急がなかった。
陽が傾き、ベンチの端から端へ影が伸びていく。
風が吹くたび、公園の桜の葉が乾いた音を立てた。
「ミカさん」
「はい」
「それは、やさしさですよ」
ミカは目を丸くした。
そんなふうに、正面から受け取られると思っていなかったのかもしれない。
「でも、やさしいって、少しさみしいです」
ぽつりとこぼれたその一言が、澪の胸へまっすぐ落ちた。
人を励ます役ばかりしている人ほど、自分の寂しさの置き場を
見つけるのが下手なのだ。澪はようやく、そのことに気づいた。
紙袋のなかから絵葉書を取り出すと、白い面が夕方の光を受けて
かすかに金色を帯びた。何も書かれていない一枚だった。
「書きましょうか」
「何を?」
「なくならないものを」
ミカは黙って澪を見た。
その目は、笑う寸前のようでもあり、泣く寸前のようでもあった。
澪は万年筆のふたを開け、絵葉書をミカへ渡した。
「笑い声って、消えるわけじゃないでしょう。形がなくなるだけで。
言葉にすれば、きっとどこかへ残ります」
ミカは受け取った万年筆を、しばらく両手で包んでいた。
それから、小さく息を吸い、ゆっくりと絵葉書に文字を書いた。
書き終えるまで、ふたりとも何も言わなかった。
できあがった葉書には、たった一行だけ、まっすぐにこう書かれていた。
「今日はミカがいます」
澪は思わず笑った。
けれど同時に、どうしようもなく胸が熱くなった。
ミカも笑っていたが、その目の縁には薄く涙が光っていた。
「それ、治さんに?」
「ううん。治さんにもですけど、たぶん、未来のわたしにも」
ミカはそう言って、少し照れたように鼻をすすった。
「また、静かになりすぎたら困るから。今日のことを忘れないように」
帰りにふたりは、閉じた店の郵便受けへその葉書を入れた。
ガラス戸の向こうには、もう棚も椅子も半分ほどしか残っていなかった。
それでも澪には、不思議と店が空っぽには見えなかった。
紙の匂いも、治の笑顔も、ミカの声も、ちゃんとそこにとどまっている気がしたからだ。
数日後、澪のもとへ一枚の手紙が届いた。治からだった。
新しい町で小さな売り場を借りたこと、届いた葉書を会計台の
いちばん見えるところへ飾ったこと、そして、あの日の笑い声が
思い出ではなく励ましになっていることが、丁寧な文字で書かれていた。
澪がその手紙を読み終えるころ、いつものように、気配もなくミカが現れた。
「ねえ、今日は少しだけ元気?」
澪は笑ってうなずいた。
「はい。たぶん、かなり」
「よかった。では記念に、コロッケパンです」
「結局そこなんですね」
「大事なことです」
ミカは胸を張ったあと、ふっとやわらかく笑った。
その笑顔の奥に、もう前と同じ寂しさがないわけではない。
けれど澪はいま、その揺れごと受け取れる気がしていた。
陽だまりは、差し込むだけでは終わらない。
いちど心に触れた光は、その人のなかに静かに残って、
次の誰かを照らす。
ミカは、今日もそんなふうに笑っていた。
日常の中で、静かに心を支えてくれるものがあります。
ミカの言葉や笑顔が、あなたの今日を少しでも軽くしてくれたなら幸いです。




