第9話:鋼鉄の計算機 vs 予測不能の「神回避」 【前編】
地中海の潮風さえも熱気に変える、アカデミア・アイランドの巨大演習場。
そこには今、歴史的瞬間を目撃しようと、世界中の防衛関係者、各国の要人、そして数えきれないほどの報道陣がひしめき合っていた。熱狂と興奮が、物理的な圧力となって会場を支配している。
演習場の巨大スクリーンには、まばゆい逆光の中で不敵に微笑むリナ・フォン・シュタインの姿が映し出されていた。
「皆様、刮目してください! これこそが我がI.I.P.S.(国際超常科学研究所)が誇る知性の極致。最新鋭対超常個体用戦闘パワードスーツ――その名も『イージス・カヅキ』です!」
リナがタクトを振るうように指を差す。
その視線の先、フィールドの中央には、純白の流線型ボディに包まれた神月木セイマが立っていた。
リナの偏愛……もとい、全英知が結集されたこのスーツは、装着者の筋肉のわずかな収縮や「感情による細胞レベルの変化」さえもナノセンサーで検知し、因果律を考慮した最適解へと導く。
まさに、神の意志を物理法則へ翻訳するための鎧であった。
だが、当のセイマはスーツの内部で、この世の終わりを悟ったような青い顔をしていた。
「……リナさん。あの、聞こえますか。このスーツ、締め付けが尋常じゃないんですけど。特に股関節の強化パーツ。これのせいで、もう脚の感覚が膝から下、完全に消失してますよ」
内部音声から、リナの少し興奮気味な声が返ってくる。
「マスター! その圧倒的な圧迫感こそ、不純な動きを一切許さない私の愛のホールド(拘束)! 最小限のエネルギーで最大効率の移動を実現するため、マスターの骨格を理想の形へと矯正しているのです!」
「いや、ただ苦しいだけなんですけど……。あと、さっきから締め付けで息苦しくなって呼吸回数が増えたせいで、バイザーの内側が真っ白に結露して、外が何も見えないです……」
セイマの視界は、自らの吐息によるホワイトアウトに支配されていた。
もはや周囲の状況どころか、自分がどちらを向いているのかすらおぼつかない。
そんな、ある種「究極の感覚遮断」という絶望的な状況の中、ついに「武人」が姿を現した。
EU特殊作戦群の若きエース、ルッツ・ベルナー大尉。
彼は砂漠迷彩のタクティカルギアを完璧に着こなし、鋭利なナイフのような視線でセイマを射抜いていた。
彼の脳内では、風向、湿度、床の摩擦係数、そして相手の筋肉量から導き出される「千通りの攻撃パターン」が、スーパーコンピューター以上の速度で演算されていた。
「神月木セイマ……。貴公がどれほどの奇跡を演じようと、私の『鋼鉄の計算機』は欺けん。貴公のその『神技』の正体、私がこの拳で暴かせてもらう」
ルッツは冷徹に言い放ち、構えを取った。
司会進行を務めるリナが宣言する。
「Ready――Go!」
リナの、どこか愉しげな号令が演習場に響き渡った。
だが、セイマは動かない。いや、物理的に動けなかった。
(……ヤバい。本当に何も見えない。一歩でも動いて転んだら、このパツパツに張り詰めたスーツが風船みたいに弾け飛ぶんじゃないか?)
セイマはただ、仁王立ちのまま、石像のように固まっていた。
「不動の構えか! 私の計算を上回る静寂……よかろう!」
ルッツが地を蹴った。計算し尽くされた無駄のない動き、時速約四十キロに達する突進。
「はあっ!」
ルッツの鋼鉄のような拳が、セイマの胸部、腹部、そして曇りきったバイザーのど真ん中へと叩き込まれる。
ドガッ! バキッ! ズドォン!
重厚な衝撃音が演習場に響き渡り、観衆からは悲鳴にも似た歓声が上がる。
だが、セイマは微動だにしない。
(……え? なんか今、外で『コンコン』って音がした? 誰かなにかを叩いてるのかな。でも今はそれどころじゃないんだよ、このスーツの締め付けが……)
スーツの防御性能が「リナの独占欲」に比例して異常すぎたため、ルッツの全霊の打撃も、セイマには「遠くで誰かがノックしている」程度の微かな振動にしか伝わっていなかった。
しかし、外部の攻撃よりも深刻な危機が、スーツ内部では進行していた。
(……それより、この全身の圧迫……っ! 血流が完全にストップして、脳に酸素が行ってない気がする。意識が……意識が遠のく。もう、限界だ……)
ルッツが、一秒間に数発という怒濤の連撃を繰り出し、衝撃の火花がスーツの表面で散っている中、セイマは外部のダメージではなく、スーツの「愛(致死量の圧迫)」によって、ついにダウン寸前の酸欠状態に陥っていた。
「どうした、神月木セイマ、攻撃してこい!」
その時だった。
スーツ内の湿度が、パニックに陥ったセイマの汗と吐息によってついに100%を突破。制御AIが、想定外の事態に「論理的エラー」を起こした。
『――警告。装着者のバイタルに壊滅的な異常、および内部環境の異常を検知。緊急事態と判断し、強制パージを実行します』
プシューッ!!
盛大な蒸気と圧縮空気の放出音と共に、純白の装甲が花開くように解体され、四方八方へと弾け飛んだ。
観衆も、解説席のリナも、そしてまさに次の拳を繰り出そうとしていたルッツも、あまりに唐突な「脱皮」に、思考を停止して立ち尽くす。
そこには、パワードスーツという殻から解放され、汗ばんだ長袖シャツ姿でふらふらと立ち尽くす一人の青年――セイマの姿があった。




