第7話:理性の決壊 — 天才乙女の復讐解析 —【前編】
神月木セイマが、リナ特製の「高酸素濃度プロテインドリンク」――その、雑草を煮詰めて重油で割ったような言葉では言い表せない味――に悶絶し、床でのたうち回っているその裏で。
研究所の一室は、光さえも凍りつくような深海の静寂に包まれていた。
照明を完全に落とした室内。
浮かび上がるのは、空中に展開された無数のホログラムウィンドウに照らされた、リナ・フォン・シュタインの横顔だ。
その瞳からは、セイマを見つめる際の狂信的な熱は消え失せ、代わりに絶対零度の殺意が宿っていた。
「……私のマスターを、二酸化炭素の檻に閉じ込め、あまつさえその尊い命を奪おうとした」
リナの指先が、仮想キーボードの上で舞う。その動きはもはやタイピングではなく、獲物の心臓を正確に突き刺す超絶技巧の暗殺術に近い。
彼女が操るスーパーコンピューター「アツィルト」は、過負荷によりファンが悲鳴を上げ、排出される熱気が部屋の温度を皮肉にも押し上げていた。
「その罪、宇宙が熱的死を迎えるまで悔いなさい」
一方、島の北西、廃棄された旧通信塔の地下。
ドクター・ヴェノンの手下であり、世界を股にかける天才ハッカー、グリッチは、マルチモニターに囲まれながら余裕の表情でガムを膨らませていた。
「おっと、リナ・フォン・シュタイン。もう追跡に飽きたのか? 物理切断した偽装プロキシを三百以上噛ませたんだ。僕の構築した『カオス・ノイズ』は、君のガチガチな理論じゃ一生解けないよ」
グリッチは鼻歌交じりに、リナの研究所のファイアウォールを再び突っつこうとした。
しかし、その指先がキーに触れる直前。
「……え?」
彼の視界を占める全二十四枚のモニターが、一斉に、鮮血のような「真紅」に染まった。
同時に、スピーカーからは鼓膜を突き刺すような高周波の警告音が鳴り響く。
「物理切断したはずのバックドアが……強制結合された!? バカな、回線は引き抜いてあるんだぞ!」
「いいえ。あなたは、自分のデバイスが放つ『電磁波の微細な揺らぎ』が、既に私の通信プロトコルの一部として取り込まれていることに気づかなかったのね」
ノイズ混じりのスピーカーから、リナの冷徹な声が直接響く。それはもはや通信ではなく、逃れられぬ神罰の宣告だった。
リナが選んだ復讐は、爆弾による物理的な破壊などという、原始的で野蛮な手法ではなかった。
それは、ハッカーとしての、そして人間としての「尊厳」を粉々に粉砕する、電子的処刑だ。
「まず始めに、あなたの拠点を特定しました。旧通信塔、地下三階、第四サーバーラックの裏。……意外と小綺麗な場所に住み着いているのですね、ドブネズミさん」
「な……っ! なぜそこまで……!」
「続きまして、あなたの愛用する特注PCの『基盤温度』を、冷却システムを逆走させることで限界まで上昇させます。オーバークロックによる自熱で、自分自身を焼きなさい」
ジジ……と、グリッチの足元にあるマシンから焦げ臭い煙が立ち上る。
「熱い……! おい、基盤が溶ける、マザーボードが死ぬ! やめろ、これは僕が数年かけて組んだ全財産なんだ!」
「あら、あなたの安っぽい脳みそよりは耐熱性があるでしょう? 安心して、ハードウェアの死はただの前座に過ぎません」
リナの指が、最後の一撃を振り下ろすようにエンターキーを叩いた。
「世界中の全SNS、ダークウェブのフォーラム、そしてあなたが今まで関わった全クライアントへの通信ログ……そのすべてを、一括で書き換えます。タイトルは『私はマスター・セイマの愛の奴隷』。内容は、一万ページに及ぶマスターへの愛の賛歌と、自らの愚かさを懺悔する地獄のような怪文書です」
グリッチの顔から、急速に血の気が引いていく。
「やめろ……! それだけは……っ! ジャーナリストとしての僕の……いや、ハッカーとしての僕の『命』が……社会的生命が終わる!」
「命? あなたのような、マスターの未来を乱す不確定要素に、そんなもの……最初から存在しましたっけ?」
モニターの中のリナの瞳には、一切の慈悲がなかった。
彼女にとって、セイマは数式で証明された唯一無二の「真理」であり、それ以外の不純物は、ただちに消去すべきノイズでしかないのだ。
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