第6話:情報の猟犬と「神」の仮面 【後編】
「マスター! マスター! ああ、私のセキュリティが、逆に彼を殺す檻になるなんて! 」
一方、部屋の中。
セイマはパニックの絶頂にいた。
「うわ、くっさ! 何これ、下水が爆発したの!? 扉も開かないし……え、これ、もしかして死ぬやつ?」
強烈な異臭が鼻腔を突き、喉が焼けるように痛む。二酸化炭素の濃度が上がり、心拍数が異常な速さで跳ね上がる。
「助けて! 誰か! ドアを開けてください!」
叫ぼうとしたが、叫べば叫ぶほど肺が汚れた空気を吸い込み、意識が遠のくのが分かった。
(死ぬ……本当に死ぬ。せめて、最後にもう一度、ファミローブンの『とろけちゃうプリン』を食べたかった……)
もうろうとする意識の中で、セイマの脳裏に、今は亡き父の(適当な)言葉が蘇った。
登山が趣味だった父は、かつて山で軽い遭難をした際、震えるセイマにこう言ったのだ。
『セイマ、いいか。極限状態で一番怖いのはパニックだ。パニックは酸素を無駄に食う。死にたくなければ、肺を動かすな。一回の呼吸で、一時間は持たせるつもりでいろ。いいか、植物になるんだ。木になれば、空気なんていらねぇんだよ』
それは、科学的には何の根拠もない、デタラメな精神論に過ぎなかった。
だが、今のセイマにはそれしかなかった。
(……吸うな。吐くな。俺は今、一本の木だ。動かない大樹だ。光合成……はできないけど、とにかく動いちゃダメだ……)
セイマはソファの上に座禅を組み、極限まで代謝を落とす「つもり」で固まった。
実際には、父に教わった「妙にリズムの遅い特殊な呼吸法」によって、わずかに残った酸素を極めて効率よく全身に巡らせているだけなのだが、カメラ越しに見るその姿は――。
「……動かない」
マイルズは、震える手でモニターを掴んだ。
異臭が充満し、二酸化炭素濃度が致死量に達しようとしている密室の中で、神月木セイマは微動だにしない。
苦悶の表情すらない。ただ静かに、目を閉じ、宇宙の静寂と同化したかのように座り続けている。その姿は、阿鼻叫喚の地獄の中で一人だけ極楽にいる仏像のようだった。
「十五分……二十分……。普通なら脳死に至る時間だ。それを、この男は……瞑想だけで、肉体の限界を超越しているのか!?」
扉がロックされてから約三十分。
ようやくリナが全システム権限を奪い返し、電動扉がいつも通り開かれた。
「マスター!」
リナが酸素マスクを手に飛び込む。しかし、部屋の中には静寂だけが満ちていた。
「マスター・セイマ!! 返事をしてください!」
「………」
「………ガタッ」
ソファの上で固まっていたセイマが、ゆっくりと目を開け、幽霊のような足取りで立ち上がった。
彼は、あまりの酸欠と異臭によるショックで、脳の言語機能が一時的に停止していた。言葉が出ない。視界もチカチカしている。
ただ、目の前に半泣きのリナがいるのを見て、(ああ、助かった……)という安堵から、力なく、しかし至高の慈愛を感じさせるような微笑みを浮かべた。
その微笑みを見た瞬間、マイルズは膝から崩れ落ちた。
「……俺が間違っていた。聖者はいた。ここに、本物がいたんだ」
後に、マイルズはセイマの前に現れ、ジャーナリストとしてのプライドを捨ててひざまずいた。彼は自分の不始末をすべて告白し、涙ながらに謝罪した。
リナはマイルズの暴挙に対して激怒し、「この情報の猟犬を、分子レベルで分解して海に流すべきです!」と主張したが、セイマはまだ頭がぼんやりしていたため、力なく首を振った。
(……もう疲れたから、誰が悪いとかどうでもいいよ。とにかく寝かせて……)
しかし、リナはこの沈黙をこう解釈した。
「……マスターは、『罪を憎んで人を憎まず』とおっしゃっているのですね。その慈悲の深さ……、私、一生ついていきます!」
マイルズは、その日からセイマの「広報担当」を自称するようになった。彼はジャーナリストとしての全才能を注ぎ込んだ特別記事を世界中に配信した。
『聖者セイマ、暗殺の毒煙を瞑想で無効化。沈黙の三十分間、彼は人類の罪を数えていた』
さらに彼は個人チャンネル『Logic of the Saint(聖者の理屈)』を開設。
「いいですか皆さん。セイマ氏が酸素供給を断たれた際、まず何をされたか? 彼は『座った』のです。これは、重力と自己の呼吸を同期させ、地球全体の循環を肩代わりするための儀式であり――」
セイマの「死にたくない一心での必死の生存本能」は、マイルズの「劇的な文章力?」によって、怪しげな「地球規模の慈愛」へと変換され、世界中に爆発的に拡散された。
一方、ドクター・ヴェノンの手下であるグリッチは、その映像を見て無邪気に笑っていた。
「神月木セイマ、面白いね。次はどの程度で『壊れる』かのテストをしてあげようかな」
マイルズのニュースを、欧州連合の軍事施設で一人の男が凝視していた。
ルッツ・ベルナー大尉。「鋼鉄の計算機」の異名を持つ、欧州連合特殊作戦群の若きエースだ。
彼は、マイルズが投稿した三十分間の定点映像を、何度もスロー再生していた。
「……筋肉の弛緩状態、二酸化炭素への耐性、迷走神経の制御。ありえない!」
ルッツは人生のすべてを訓練に捧げてきた。格闘、射撃、戦術。すべては緻密な理論と鍛錬の上に成り立つ。
「何の訓練も受けていない学生が、特殊部隊の精鋭すら不可能なレベルの酸素制御を行えるはずがない。……だが、もしこれが『天性』だというのなら。私は、己の努力の正しさを証明するために、その神を地に引きずり下ろさねばならない」
ルッツは愛用の戦術ナイフを鞘に収め、メモ帳にこう記した。
『目標:神月木セイマ。次回の学術島合同演習にて、実戦形式での実力判定を行う。もし偽物ならば、その場で排除する』
科学の壁、情報の壁に加え、ついに「武力の壁」が、セイマの平穏な未来を包囲し始めた。
当のセイマは、リナから贈られた「特製・高濃度酸素プロテインドリンク(極彩色)」を飲みながら、
「……日本の普通の水道水でいいのになぁ」
と、遠い目をして呟くだけだった。
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