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第4話:天才科学者との出会い — 解いてはいけない方程式 —【後編】

ホールを支配する、重苦しい沈黙。


セイマは冷や汗を拭いながら、目の前に広がる光り輝く文字列を見つめていた。


(……なんだこれ。全く、概要も分からない。新現代アート?)


セイマの数学知識は、大学生として「特別優秀」な部類ではあるが、あくまで「人間の領域」に留まっている。


目の前の、因果律だの多次元確率だのを記述した数式は、彼にとって異星人の暗号にしか見えない。


脳裏には「逃亡」の二文字が点滅していた。


だが、正面からはリナの鋭利な刃物のような視線が。

背後からは、世界中の天才たちの「神を待つような」熱い期待が逃げ道を塞いでいる。


(……なんなんだ、このプレッシャーは。せめてプリンでもあれば脳を動かせるかもしれないけど、今は胃が痛すぎてそれどころじゃない……)


絶望的な状況。だが、セイマはふと思った。


このまま「分かりません」と言って、彼らが解放してくれるだろうか?


いや、むしろ「世界科学技術フォーラムへの冒涜だ」とか言われて、監禁されるかもしれない……。


「……五分だけ待ってください。準備しますから」


セイマは覚悟を決めた。いや、現実逃避の時間を稼いだだけかもしれない。


彼は壇上で静かに目を閉じ、深く、ゆったりとした呼吸を始めた。


……五分後。


セイマは突然、目を見開いた。


彼は、この複雑怪奇な数式の中に、たった一つだけ自分と接点のある「理論」を探そうとした。


「えぇぇぇっと………」


「うぅぅぅん……」


「…………」



「……あ」


……そのとき、ある一つの「違和感」を彼は捉えた。


ある一箇所。極めて複雑な積分記号が乱立し、データの偏りを示す項。


それを見た瞬間、セイマの脳裏に、霧の都イギルニアの古びたパン屋の光景が蘇った。


「これ……、項の配置が、めちゃくちゃ座りが悪いな。

あれと同じだ。店長がオーブンの熱対流を無視してパンを詰め込みすぎたせいで、ベーグルの片側だけが焦げた時の温度分布図……」


一度そう見えると、もうベーグルにしか見えない。

「因果の収束点」などと呼ばれているそれは、彼に言わせれば「空気の通りが悪い焼き型」だった。


「熱対流――じゃなくて、えーと、因果の『流れ』のバランスが悪すぎる」


セイマは無意識に、リナが出したホログラムに指を伸ばした。


彼の脳内にあるのは、ギリシャ哲学の「中庸」の精神と、毎朝焼いていた焼きたてパンの、あの均一な黄金色のグラデーションへのこだわり。


「ここを、こう。……なんとなく、この方が綺麗だろ?」


彼は、複雑に絡み合った項を一つ、指先でフリックして消去した。ただそれだけだ。数学的な整合性も、物理的な証明も何もない。


「なんとなく座りが悪い」という、彼の美的直感による、たった一行の削除。


その瞬間――。


「――ッ!?」


リナ・フォン・シュタインが、眼鏡の向こうにある綺麗なブルーの目を見開いた。


投影されていた警告の赤色アラートが、瞬時に鮮烈な青色アクティブへと染まる。


先ほどまでエラー表示を出していたスーパーコンピューター「アツィルト」が、かつてない速度で猛烈な演算を開始したのだ。


数万、数億の不確定要素が、まるでドミノ倒しのように次々と整列していく。


最後にメインモニターに映し出されたのは、あまりにも簡潔で、そしてあまりにも完璧な一文字だった。


【 解 (ANSWER) 】


「……嘘。……エラーが、消滅した……? 私が最も重要だと思っていた『特異点』の項を……。不必要な不純物として切り捨てたというの……?」


リナの身体が、武者震いでガタガタと震え始めた。


彼女が十年かけても、どれだけ計算資源を注ぎ込んでも埋められなかった溝が。


今、目の前の青年が「パンの焼き加減」を気にするような、暴力的なまでの簡潔さで埋められた。


「……ありえない。人類が到達するのに、最低あと百年はかかると思われていた解を……。それが、あなたの視ている風景なのですか、神月木セイマ……!」


リナは崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。


彼女の瞳から冷徹な色は消え失せ、代わりに、宗教的なまでの狂信が宿る。


「……やはり、あなたは地上に降りた知の化身。……いえ、マスター・セイマ。私、リナ・フォン・シュタインは、今この瞬間、理解しました」


「え、マスター? いや、俺はただのパン屋のバイトで――」


「謙虚さすらも、もはや神の領域……! 私は決めました。一生、あなたという『真理』に仕え、あなたのその無造作な振る舞いのすべてを理論化し、世界に布教することを!」


「……えぇ……?」


セイマの目の前で、リナがひざまずき深々と頭を下げた。


静寂に包まれていたホールは一変し、次の瞬間、雷鳴のような拍手と、学者たちの熱狂的な叫び声で埋め尽くされた。


こうして、セイマの求めていた「平穏な生活」は、世界最高峰の天才科学者を「狂信的な信者」にしてしまったことで、永遠に失われた。


その夜。


ネットの海の底で、一人の男がリナ・フォン・シュタインの緊急発表論文を閲覧していた。


タイトルは『神月木セイマ:多次元宇宙における直感的因果律操作の証明』。


男の名は、マイルズ。


かつて多くの「奇跡」を科学的なトリックだと暴き、数々の「聖人」を社会的に抹殺してきた、冷徹なリアリストだ。


「『先天的賢者』だと? 笑わせるな」


マイルズは、暗い部屋でモニターの光に照らされながら、不敵な笑みを浮かべた。


モニターには、今日、島で喝采を浴びながらも、どこか「早く帰ってプリンが食べたい」と言わんばかりの困り顔を隠せないセイマのアップが映っている。


「リナ・フォン・シュタインのような天才が、これほど簡単に騙されるとはな。……だが、俺の目は節穴じゃないぞ。その怯えた目、その不自然な挙動……。神月木セイマ、お前はただの幸運な凡人か、あるいはこれまでにないほど周到に『無知』を演じている詐欺師だ」


マイルズはキーボードを叩き、闇情報のネットワークを開いた。


検索欄に入力されたのは――『アカデミア・アイランド 警備システム 脆弱性』。


「この世に裏のない人間など存在しない。お前のその化けの皮、俺が世界中の前で剥いでやる」


新たな嵐が、狂信の渦巻く島に向かって、静かに動き出していた。

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