第30話:巫女の千本ノック — 聖者の絶叫、隠れ里に響く —【中編】
大木の上で、特製のホログラム測定器を片手にリナ・フォン・シュタインが狂喜乱舞している。
「素晴らしい……! マスターの逃走加速度が、ついに音速の壁に干渉し始めました! あの泥に突っ込む瞬間の運動エネルギー! 通常の人間であれば骨折は免れない衝撃ですが、マスターは衝突の直前、周囲の空間の量子状態を書き換え、衝撃波を位相空間へ逃がしています!」
リナは興奮のあまり、空中に複雑な数式を投影して叫んだ。
「現在のマスターの空間干渉は、もはや古典物理学を置き去りにしています! 『シュレーディンガー方程式』における『ポテンシャルエネルギー』を、彼自身の『恐怖』という名の観測力でゼロに書き換えている……!
恐怖という感情エネルギーは、これほどまでに人体を、いえ、進化を加速させるのですね!!」
その下では、滝に打たれながらルッツ・ベルナー大尉が感涙していた。
「おおお……! 師匠……!! あえて無様に転がり、泥をすすりながらも、その軌道は常に怜殿の死角を描いている……。立って歩くことすら傲慢であると、大地との一体化の極致を体現しておられるのだ! 私もあのように『地面とお友だち』になる修練を積まねば!!」
ルッツは滝から飛び出すと、「重力との対話だ!」と叫びながら、自ら顔面からぬかるみへと突っ込んでいった。
(……助けて。誰か、まともな人を呼んで……!!)
セイマの魂の叫びは、今日も隠れ里の空に虚しく吸い込まれていった。
修行開始から二週間。セイマの肉体的な疲労もさることながら、精神的な摩耗は限界に達しつつあった。『解放の儀』以降、彼の視界には常に「光る因果の糸」がチラつくようになっていた。
最初はモノクロ世界だった視界も徐々に色を取り戻してはいたが、空間に張り巡らされた無数の糸は、セイマの脳に絶え間ない情報過多を引き起こしていた。
「今日は視覚を完全に遮断していただきます」
怜はそう言うと、セイマの目に分厚い黒布を巻き付けた。
「えっ、ちょ、真っ暗なんですけど!」
「ええ。目で見てはいけません。心眼で、運命の糸の『色』と『質感』を嗅ぎ分けるのです」
怜は数メートル離れた場所に立ち、足元にある無数の小石を拾い上げた。
「これから、この小石をセイマさんに向けて放り投げます。避けてはダメですよ?」
「……は? 避けるなって、当たるじゃないですか!」
「ええ、当たります。痛いですよ? ですから、自分に向かって伸びてくる『黒い糸(悪意や痛みを伴う結果)』だけを選び出し、その糸を指先で『弾いて』ください」
「無茶苦茶言わないでくださいよ! 小石が弾丸みたいに飛んでくるのに、色なんて選んでる余裕、あるわけないですって!」
「いきますよ。……えいっ」
怜の「えいっ」という可愛らしい掛け声とは裏腹に、放たれた小石は空気を切り裂く破裂音を伴って、セイマの眉間へと真っ直ぐに迫ってきた。
(死ぬ!!!!)
目隠しをされているにも関わらず、セイマの脳内には自分を貫こうとする「太く真っ黒な糸」が、まるで警報ランプのようにギラギラと輝いて見えた。
恐怖とパニック。セイマは悲鳴を上げながら、顔の前でめちゃくちゃに両手を振り回した。
「うわあああああっ!!」デタラメに振り回した右手の指先が、偶然、その「嫌な予感(黒い糸)」に触れる。――パチン。静電気が弾けるような、微かな音。
その瞬間、セイマの額を砕くはずだった小石は、セイマの鼻先わずか数センチの空中で、まるで見えない壁に激突したかのようにピタリと静止し――次の瞬間、細かい砂粒となってサラサラと霧散した。
「……え?」目隠しをしたまま、セイマは自分の指先を恐る恐る触った。
「……できた? いま、なんか手応えがあったような……小石、当たってないですよね?」
「お見事です、セイマさん」
怜がパチパチと上品な拍手を送る。
「今のが『因果の拒絶』です。事象(小石)があなたの体に触れる前に、それがもたらす『痛い』という結果の糸だけを、あなたはゴミ箱へポイッと捨てたのです。結果が失われた原因(小石)は、世界に存在を維持できなくなり、ああして崩壊する」
「……ゴミ箱へポイ、って。そんなパソコンのファイル消去みたいなノリで世界の法則をいじっちゃダメでしょ……」
怜の指導は、セイマの中にある「痛いのは嫌だ」「怖いのは嫌だ」という極めて人間的な『臆病さ』を、世界に対する強制的な『予測・拒絶能力』へと変換する、極めて合理的でありながら(セイマにとっては地獄以外の何物でもない)スパルタ・プロセスだった。
「さあ、コツは掴めましたね? では次は、同時に10個投げますから、全部弾いてくださいね。一つでも漏らしたら、次は巨石ですよー!」
「サイコパスぅぅ!!」
石の雨が降り注ぎ、セイマの悲鳴と、因果が弾け飛ぶ「パチン、パチン………ズドーン」という音が、夕暮れの森に虚しく響き渡った。
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