第3話:天才科学者との出会い — 解いてはいけない方程式 —【前編】
地中海の眩い太陽が、波間に反射して宝石のように散っている。
その中心に鎮座するのは、地図に載らない人工の孤島、通称「アカデミア・アイランド」。
世界中の科学、哲学、そして現代の魔術とも呼べる幾何学の粋を集めたこの島は、一種の理想郷を体現していた。
最新鋭のカーボンナノチューブを用いた透明な高層建築と、古代ギリシャの神殿を思わせる大理石の円柱。それらが矛盾なく並ぶ景観は、人類の知性が到達した究極の調和を象徴している。
だが、その島に降り立った神月木セイマの心中は、絶望に近い戸惑いで満たされていた。
「……ここなら、穏やかに過ごせると思ったんだけどなぁ……」
深々と被ったフードの隙間から、空に向かって伸びる「現代のバベルの塔」を見上げ、セイマは力なく肩を落とした。
数日前、暴徒三十人を「たまたま」無力化してしまった映像がSNSで拡散され、一躍、時の人――「アイス・セージ」に祭り上げられてしまった彼にとって、この島への招待は渡りに船だった。
国際超常科学研究所(I.I.P.S.)という仰々しい組織からの招致。
『平穏な隠れ家を提供する』という甘い言葉を信じ、彼は「神様がくれた安眠へのパスポートだ」と解釈して、喜んでヘリに乗り込んだのだ。
だが、タラップを降りた彼を待ち構えていたのは、歓迎の宴ではなく、肌を刺すような知的興奮と、巨大なプレッシャーに満ちた沈黙だった。
世界科学技術フォーラムのメインホール。
その広大な空間は、数百人のノーベル賞級の学者たちで埋め尽くされていた。セイマは、支配人と思わしき男に促されるまま、高い壇上へと向かう。
(……なに、この状況? なんで俺、こんな視線の集中砲火を浴びてるの?)
大理石の床に響く自分の靴音が、これほど恐ろしく感じたことはない。
壇上の中央には、一人の女性が立っていた。
清潔感のある白衣を纏い、腰まで届く銀色の長い髪を揺らす彼女――リナ・フォン・シュタイン。わずか十八歳にしてI.I.P.S.の名誉教授を務める、現世で最も神に近いとされる天才だ。
眼鏡の奥に潜むブルーの瞳が、セイマを値踏みするように見つめる。
「神月木セイマ。あなたの解析データは、私のスーパーコンピューター『アツィルト』によって、既に二万回以上の再演算を終えています」
彼女の声は鈴の音のように澄んでいたが、その内容はあまりに物騒だった。
リナが指を鳴らすと、ホログラムPCから無数の幾何学図形が空間に投影される。
それは、あの日イギルニアの街角で、セイマが必死に逃げ回った際の軌跡を「数式化」したものだった。
「左足の踏み込み、重心の移動。そのすべてが、周囲の因果律に干渉している。あなたの挙動は、敵の攻撃を0.001パーセント以下の確率でしか起こり得ない軌道へ、物理的に誘導しているのです。……これを物理法則への冒涜と呼ばずして、なんと呼ぶべきか」
「いやぁ、あれはホントたまたまで……。運が良かっただけなんですよ」
セイマは精一杯の愛想笑いを浮かべたが、リナは眉ひとつ動かさない。
「言い訳は不要です。真理は言葉ではなく、現象によって語られるべきものですから」
(……あっ、この人、完全に人の話を聞かないタイプだ。陽葵(妹)と同じ人種か……)
「もしあなたが本当に、高次元の演算を無意識に行っている『マスター(真理の体現者)』であるならば――私の一生を捧げた課題を、ここで解いてみせてください」
リナが腕を大きく振るうと、周囲のホログラムが一変した。
そこに現れたのは、数千行にも及ぶ不完全な量子幾何学の方程式。
世界最高の演算能力をもってしても、解析に数世紀を要すると言われる難問中の難問、「因果律崩壊を防ぐための量子安定化数式」の未完成モデルだった。
「これが現時点での私の、そして人類の限界です。ここから先は、数式という名の神への祈り。……さあ、あなたの知性で、この『神の式』を完成させてください」
会場の空気が、パチンと弾けるような極限の緊張状態に達した。




