第29話:巫女の千本ノック — 聖者の絶叫、隠れ里に響く —【前編】
スカルペルの放った「人体切断という確定した未来(黒い糸)」を、神月木セイマは図らずも自らの手刀で粉砕した。
常人であれば、己の成し遂げた神技に酔いしれるか、あるいは暗殺者を退けた安堵に胸を撫で下ろす場面だろう。
だが、セイマの胸中を占めていたのは、そんなポジティブな感情では断じてなかった。
(……終わった。俺の『ただの不運な人』という言い訳が、完全に通用しなくなった……)
へたり込むセイマの背中に、ゾクリとするような冷たく、そして生温かい視線が突き刺さる。
振り返ると、そこには先祖伝来の真剣を優雅に鞘に納めた巫女――地神 怜が立っていた。
彼女の藍色の瞳は、かつてないほどギラギラと、まるで極上の獲物を見つけた肉食獣のような妖しい光を放っていた。
「セイマさん」
清らかで、しかし有無を言わせぬ圧を伴った声。
「今のあなたをそのまま外界へ帰すのは、極上の霜降り肉を泥水に放り込むのと同じ。あるいは、磨き上げれば天下の名剣となる玉鋼を、野ざらしにして錆びさせるようなもの……。ええ、許されません。この私が、決して許しません」
「えっ、いや、あの、怜さん? 目が、目が座ってますけど……」
「……一ヶ月です」
怜はセイマの顔のすぐ近くまで顔を寄せ、有無を言わせぬ甘い吐息と共に宣告した。
「一ヶ月、みっちりとあなたを『シゴいて』……いえ、『修行』をつけて差し上げます。あなたのその魂にこびりついた凡人の皮を、一枚残らず剥がして差し上げましょう」
「ひっ……! 『シゴいて』って言った! 今、絶対に『シゴいて』って言った!!」
こうして、神月木セイマの人生において、最も長く、最も理不尽で、最も命の危機に瀕する「地獄の一ヶ月」が幕を開けたのである。
翌朝から始まった「修行」の基本は、至ってシンプルだった。
『地神怜から、全力で逃げ続けること』。ただそれだけである。
しかし、その「強度」と「理不尽さ」は、日本に到着した初日とは比較にならない次元にまで跳ね上がっていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! 嘘だろ、嘘だろぉぉ!!」
朝露に濡れる隠れ里の裏山。セイマは、肺が破けそうなほど息を荒らげながら、青葉が生い茂る木々の間を転がるように駆け抜けていた。
顔は泥だらけ、修行用の「合気道着(袴タイプ)」は木の枝で引き裂かれ、もはやボロ布のようだ。
「ふふっ。セイマさん、足運びが雑になっています。運命の糸に足を取られますよ?」
背後から、一切の息切れも感じさせない怜の声が響く。セイマが恐怖のあまり後ろを振り返ると、そこには信じられない光景があった。
隠れ里の端にある大きな池。怜は、その水面を「歩いて」いたのだ。
沈むどころか、水しぶき一つ上げていない。まるで鏡の上を散歩するかのような優雅な足取りで、しかしセイマとの距離を確実に、そして異常な速度で詰めてくる。
「あわわわ! 怜さん、今、池の上を歩いていませんでした!? 物理法則はどうしたんですか!! ニュートンが泣いてますよ!」
「物理法則? そのようなものはただの『多数決』です。運命が『私は水に沈まない』と確定していれば、沈むはずがありません。世界は私の認識の通りに形作られるのですから」
ニコニコと微笑みながら、怜が一歩を踏み出す。その瞬間、彼女の姿がフッと消え、数十メートルを一瞬で零距離にする「縮地」が発動した。
「ヒィィッ! ワープした!?」
「さあ、次は背後に回りますよ」
耳元で甘い声が囁かれた瞬間、セイマの生存本能が限界を突破した。脳が「死」を強烈に錯覚し、無意識下で『時間超越』のスイッチが半ば強制的にオンになる。
セイマは悲鳴を上げながら、進行方向にあった太い木の根にわざと足を引っかけ、派手にぬかるみへとダイブした。地面を転がりながら、迫りくる怜の手(捕まれば因果を強制結合される)を、文字通りミリ単位で回避していく。
木の幹に激突し、泥をすすり、無様に這いつくばる。それはおよそ「聖者」とはかけ離れた、ただの小動物の逃走劇だった。
しかし、それを観察しているギャラリーの解釈は、相変わらず狂っていた。
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