第28話:因果の断裂 — 運命を拒絶する聖者の指先 —【後編】
「……ありえない」
スカルペルは、震える声で呟いた。
彼の潔癖なまでの論理的思考が、目の前で起きた事象を理解することを激しく拒絶している。
「防御したわけではない。回避したわけでもない。……因果を、事象が確定する前に、物理的な手刀で『切断』したというのか……? 科学でも、医術でも、魔術ですらない……。これは、前提条件の破壊。概念への直接攻撃だ……」
氷の外科医の顔が、初めて恐怖という感情で歪んだ。
自分の精密な計算が通用しないのなら、まだいい。計算し直せば済むことだ。
だが、セイマがやったことは違う。
「計算の根拠となる『原因と結果(因果)』そのものを消去する」という、宇宙の法則に対する反逆。
それは、すべてを論理で支配しようとするスカルペルにとって、自分の存在意義そのものを否定されるに等しい、何よりも耐え難い屈辱であり、恐怖だった。
その時。
スカルペルの背後の空間が、ゆらりと揺れた。
「――当家の『結変士』様に、随分と不粋な真似をしてくれますね。氷のお医者様?」
一切の気配もなく、スカルペルの背後に立っていたのは、地神怜だった。
彼女の手には、昨夜セイマを追い回したあの「奉納用の真剣」が握られている。
その刀身からは、ゾッとするような冷たい剣気が立ち昇っていた。
彼女の瞳は、穏やかな藍色から、底知れぬ深淵を感じさせる濃紫へと変わっている。
スカルペルは、背後の怜の殺気と、目の前で因果を破壊したばかりのセイマ(本人は腰を抜かしそうになっているが……)を交互に見比べた。
彼の頭脳のスーパーコンピューターが、現在の勝率を「0.00001%」と弾き出す。
「……データの、再構築が必要です」
スカルペルは、苦虫を噛み潰したような表情で一歩後ずさった。
「神月木セイマ……今回は私の『前提』が間違っていました。あなたの『不条理』は、解剖するだけでは足りない。……次は、あなたを『この世界から無かったこと』にするための、究極のメスを用意しましょう」
言い残すと同時に、スカルペルは純白のコートから特殊な煙幕――視覚だけでなく、赤外線や魔力探知すらも無効化するジャミング・スモーク――を放ち、夜の闇へと文字通り「消失」した。
静寂が、隠れ里に戻ってくる。
「セイマさん。今回の件、お見事でしたよ。やはり私の目に狂いはありませんでした」
怜が、真剣を優雅に鞘に納めながら、驚愕と羨望、そしてそれ以上の「重い愛執」の入り混じった目でセイマを見つめる。
トラップから解放されたリナとルッツが、弾かれたようにセイマの元へ駆け寄ってきた。
リナは、ほとんどタックルのような勢いでセイマの腰回りに飛び込んできた。
「マスター!! 今の現象、私の記録計が処理不能を起こして内部から爆発しました! 信じられません、あなたの両手は物理的な干渉力を持たずに、事象のベクトルだけを書き換えたのです! これが……これが神の御業……『因果切断(因果ブレイカー)』ですね!! ああ、私の論文のタイトルがまた一つ増えました!!」
ルッツは、セイマの前に静かに跪き、両手をついて深く、深く頭を下げた。その屈強な肩が、感動で小刻みに震えている。
「師匠……。目隠し修行などと抜かした、己の底の浅さが恥ずかしい。あなたは……刃ではなく、運命そのものを斬り伏せられた……! 私が求めていた武の極致は、次元の壁の向こう側にあったのですね!!」
三者三様の、常軌を逸した狂信と称賛の嵐。
だが、その中心にいる神月木セイマは、砕け散った「黒い糸」の残滓が雪のように舞い散る夜空を見上げながら、力なく地面にへたり込んでいた。
(違うんだよ……。俺はただ、絶対絶命の状況で意識を失って気が付いたら終わっていただけなんだ……。運命を斬ったとか、そんなかっこいいことじゃないんだよ……)
「……帰りたい。アパートの四畳半に帰って、店長が作った少し焦げたパンが食べたい……。普通の、ただの普通の大学生に戻りたいよぉ……」
セイマの悲痛な魂の叫びは、誰の耳にも届かない。
むしろ、その儚げで虚脱した表情すらも、彼らには「世界を救済し終えた後の、聖者の憂い」として美しく脳内変換されているのだ。
セイマは自らの両手を見つめた。
そこには、スカルペルの運命を拒絶し、因果を粉砕した「白銀の輝き」が、ほんのわずかに、しかし冷たく、確かに残っていた。
自分は、もう二度と「普通」には戻れない。
その絶望的な事実だけが、セイマの胸に重くのしかかっていた。
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