第26話:因果の断裂 — 運命を拒絶する聖者の指先 —【前編】
「……うぇぇ、気持ち悪い。世界が、線だらけだ……」
『解放の儀』を終えて約1時間後、セイマは隠れ里の奥深くにある石造りの堂から、ふらふらとした千鳥足で這い出してきた。
だが、堂の外に出た瞬間、セイマ、リナ、ルッツは驚愕した。
石造りの堂に入った時刻は午前9時頃。だが、外の世界はもう夜(午後8時ぐらいの暗さ)になっていたからだ。
「ほんの2時間程しか入っていなかったのに……なぜ……」
「それは『解放の間』の時間軸は外とは異なるからですよ」
怜がさらっととんでもないことをおしとやかな声で教えてくれる。
セイマはリナが大興奮しそうな事象だなぁっと一瞬、脳裏を横切ったが、彼の「モノクロ世界の糸酔い」はひどくそれどころではなかった。
彼の意識を占めているのは視界を埋め尽くす、暴力的なまでの「情報量」。
それらすべてが、チカチカと明滅しながらセイマの視神経を容赦なく攻撃してくる。
「あわわ……ダメだ、情報量が多すぎて、完全に酔う……。吐きそう……。誰か、俺の目の解像度を240pくらいまで下げて……」
セイマは両手で目を覆い、しゃがみ込んだ。
普通の大学生が突然「世界のソースコード」を視覚化されてしまったのだ。
脳の処理能力が追いつくはずもない。
彼がパン屋で培ったのは「オーブンの最適な温度管理」であって「多元宇宙の因果律の把握」ではないのだ。
だが、彼に休息の時間は与えられなかった。
不意に、セイマの視界の端――モノクロの風景の一部が、奇妙な歪みを生じた。
それは「音」すらない、絶対的な静寂を伴う殺意。
隠れ里の入り口を囲むようにそびえ立つ巨木の影から、純白のコートをひるがえし、一人の男が「滲み出るように」姿を現したのだ。
「……迷信深い極東の儀式など、私の『メス』の前では無力だ」
スカルペル。
ドクター・ヴェノンが放った最凶の刺客であり、かつてアカデミア・アイランドでセイマの「寝返り」に精密な外科的計算を粉砕された氷の外科医だった。
リナが隠れ里の周囲に何重にも張り巡らせていたはずの最新鋭のレーザーセンサー網や、空間変位探知機は、一切の警報を鳴らしていない。
スカルペルの指の間に挟まれた高周波振動メス「エレクトラム」が、警報システムが「異常を検知する」という因果そのものを、文字通り物理的に切断しながら進んできたからだ。
月光を反射し、エレクトラムが残酷なほど鋭利に、そして美しく輝く。
「……また出たあぁ!! なんで!? なんで日本まで!? ストーカーですか!?」
セイマの情けない悲鳴が、静かな里に響き渡る。
だが、今のセイマの瞳には、かつてのスカルペルの姿とは全く異なる、恐るべき光景が映し出されていた。
スカルペルの指先、そのメスの切っ先から、ドス黒く濁った、まるでコールタールを煮詰めたような「真っ黒な糸」が、何十本も放射状に伸びていたのだ。
その糸は、空間を最短距離でぶち抜き、セイマの喉元、両手首、両足首、そして心臓へと、すでに「結びついて」いた。
(なんだこれ!? 今までの糸と全然違う! この黒い糸……見ているだけで、首がスースーするし、手足が切り落とされる幻覚が見える……!)
それは、数秒~十数秒後にスカルペルが実行する「切断という結果」を、因果の法則が事前告知しているものだった。
つまり、セイマの目には「自分がどうやってバラバラにされるか」という未来の確定ルートが、黒い実線となって可視化されているのだ。
「標的、神月木セイマ」
スカルペルは、感情の欠落した声で淡々と告げた。その右目の義眼が、不気味な赤光を放つ。
「前回のデータに基づき、あなた特有の『不確定な回避挙動』を再計算しました。結果、今回はあなたの逃走経路の85%を、私のステップと予備動作によって事前に封鎖する戦術を採用。あなたの『偶然』という名の誤差を、今ここで完全に摘み取ります。……さあ、解剖を始めましょう」
スカルペルが動いた。
常人の動体視力では、彼が地面を蹴ったことすら認識できない。
まさに神速の踏み込み。純白のコートが残像すら置き去りにし、一瞬にしてセイマの懐へと潜り込む。
だが。
「来る! 左から来る! っていうか、もう糸が刺さってるぅぅ!」
セイマの視界では、スカルペルが動くよりも早く、彼に結びついた「真っ黒な糸」が鎌首をもたげる蛇のようにピンと張り詰め、収縮しようとしていた。
セイマの脳が思考するよりも先に、生存本能がその「死の軌道(黒い糸)」から逃れようと、強制的に肉体に命令を下す。
ヒュンッ!
スカルペルの放った、セイマの頸動脈を正確に狙った第一の刃。
しかしセイマはまるで瞬間移動のように、「絶対にメスが通らない1ミリの隙間」へと体を捻っていた。
銀の刃は、セイマの髪の毛を数本散らしただけで、空を虚しく切り裂く。
「……ほう」
スカルペルは攻撃をかわされたというのに、わずかに口角を上げた。
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