第25話:因果の視認 — 張り巡らされた神の糸 —【後編】
その黒い糸が、今まさに徐々に太くなっていた。
「怖い、怖い、怖い、怖い!」
セイマは半ばパニック状態で、空中に張り巡らされた「黒い糸」を、うっとうしいクモの巣を払うかのように、右手で鋭く振り抜いた。
と、その時。
「パチン!」
静まり返った「解放の間」に、乾いた音が響いた。
実際には、セイマの手は空を斬っただけだ。そこには切るべき実体など存在しない。
しかし、彼が糸に触れた瞬間、空間がガラス細工のように一瞬だけ歪み、ひび割れた。
直後。
視界に映っていた黒い糸が、まるで熱したナイフを通された絹糸のように、端から崩壊し、消滅していったのだ。
「……いま、因果を『切った』のですか、セイマさん?」
背後から聞こえた怜の声は、これまでのどのような時よりも低く重かった。
セイマが恐る恐る振り返ると、怜は畏怖に満ちた瞳で彼を凝視していた。
「地神家に伝わる秘術の最終奥義……目に見えぬ運命の糸を直接断ち切る『因果切断』。それを、教わる前に自力で……。やはりあなたは、私が……いえ、我ら一族が数千年前から待ち望んだ、『結変士』そのもの……」
「違う……違うんです! 俺はただ、邪魔な糸を……取り除いただけなんです!」
セイマは自分の右手を凝視した。
自分のしたことの意味が、天才たちの解説や巫女の驚愕によって、強制的に「凄いこと」に書き換えられていく。(※実際、とんでもなく凄いことなのだが、セイマには自覚無し……)
一度開かれた「神の瞳」は、もう閉じられない。
セイマは望まぬ『神の視点』を手に入れてしまい、押し寄せる運命の糸に翻弄されながら、さらなる混沌の渦中へと突き進むことになった。
一方、その頃。
隠れ里の入り口へと続く険しい山道に、周囲の自然美をすべて拒絶するような、純白のコートをまとった男が立っていた。
銀の執刀医、スカルペル。
彼はドクター・ヴェノンから授かった「因果追跡」のデバイスを左腕に装着し、セイマから漏れ出る「特異点の波動」を追ってここまで辿り着いたのだ。
「……目標、神月木セイマ。この山の奥に、彼の生命反応を捉えている。まもなく手術を開始する」
スカルペルは感情の欠落した声で呟き、霧に包まれた隠れ里の境界線を越えようとした。
しかし、その一歩を踏み出す直前。
「――ッ!?」
突然、スカルペルのホログラムモニターには、赤い警告文字が。
『警告:追跡対象の因果ログが消滅。事象の不連続性を検知。ターゲット、世界線から一時的に紛失しました……』
その直後、彼の左腕のデバイスが、無音で崩壊していき最終的には完全消滅した。
「何だ……。何が起こった……。理解できない……だと!?」
スカルペルは、ありえない事態に初めてその無機質な顔を歪めた。
彼が追っていた「セイマを解剖する」という確定した未来。その道標であった「因果の糸」が、今この瞬間、跡形もなく消え去ったのだ。
「……ありえない。一度私のメスにロックされた因果が、自然に消滅することなど。……何をした、神月木セイマ」
スカルペルは、自らの右目――強化された透視眼を限界まで見開いた。
彼の視界には、遠くの山の奥にブラックホールのような「異質な領域」が見えていた。
そこは、理屈も、計算も、そして運命すらも通用しない、一人の「謎の青年」が作り出した、絶対的な領域だった。
「……面白い。解剖の難易度が上がれば上がるほど、外科医の指先は歓喜に震えるものだ」
スカルペルは、音もなく背後のエレクトラムを抜き放つと、霧の向こうへと消えていった。
『解放の間』
セイマは、未だにモノクロで見える視界と、空中に浮かぶ無数の「因果の糸」に頭を抱えていた。
「怜さん。……俺、もう一回聞きますが、これ、元に戻せますよね? ずっとこの蜘蛛の巣みたいなモノクロ世界で生きていくのは、精神的にキツすぎるんですけど……」
「マスター、何を仰るのですか!」
リナが興奮のあまり、セイマの肩を激しく揺さぶる。
「世界を『構造』として把握できるようになったのです。これからは、コーヒーをこぼす未来も、靴紐が解ける因果も、すべて事前に回避できる。あなたは名実ともに、この世で最も安全な存在になったのですよ!」
(事前回避できる内容がしょうもない気が……)
「師匠! ついに視覚までもが神の領域に! ぜひ、私にもその『糸』を見せてください! どうすれば視えるのですか! 腹筋一万回ですか!? それとも炎行ですか!?」
(炎行ってなに……?)
「二人とも落ち着いてください」
怜がにっこりと微笑みながら割って入ってきた。
「セイマさんは今、世界という名の因果から、自分を縛る糸をほどく術を学んだばかり。……ですから、一つだけ忠告しておきますね」
怜は、自分からセイマの胸元へと伸びる、ひときわ太い「赤い糸」をそっと指差した。
セイマの目には、その糸が、怜が指を添えた瞬間により一層鮮やかに、そして強固に脈打つのが見えた。
「この糸だけは、どれほどあなたが願っても、決して切ることはできません。……なぜなら、それはあなたと私が、前世よりも前から結ばれていた『因果の特異点』そのものなのですから」
(……絶対、今作った設定でしょ、それぇぇぇ!!)
セイマの心の叫びは、モノクロの世界に虚しく響いた。
彼が手に入れた「神の瞳」は、皮肉にも、自分を束縛する者たちの情熱がいかに重いかを、残酷なまでに視覚化するものであった。
その一方で、彼の視界にはスカルペルという「鋭利な銀の糸」が、山の稜線を越えて近づいてくるのが、はっきりと視え始めていた。
「……あ、なんか、すごく怖い糸がこっちに向かってきてる気がする……」
セイマの絶望の第二幕が、今、静かに幕を上げた。
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