第23話:忘却の巫女 — 逃げられない儀式 —【後編】
怜は、再びあの「奉納刀」を取り出した。ただし、今度は鞘に収めたままだ。彼女はそれを祭壇に置くと、セイマの額にそっと指先を触れた。
「……因果とは、編まれた糸のようなもの。人は皆、その糸に縛られ、過去から未来へと引きずられていきます」
怜の瞳が、藍色から深い紫色へと変色していく。
「あなたは、その糸が最初から見えていた。だから避けることができた。けれど、避けるだけでは不十分なのです。糸がある限り、いつかは絡まり、捕まってしまう」
怜の指先から、熱い何かがセイマの脳内に流れ込んできた。
「今から、あなたの『枷』を解き放ちます。……これからは、あなたが『糸そのもの』になるのです」
「解放の儀、始めます。
天の鎖よ、因果の枷を解き放て。
彼が視るべき真実を、その瞳に映し出せ――」
怜が低く唱えると、周囲の鏡が一斉に光を放った。
それと同時に、セイマの視界が急激に歪み始めた。
「……あ、が…………っ!?」
叫ぼうとしたが、声が出ない。
全身の細胞が一度バラバラになり、全く別のパズルとして組み直されるような、凄まじい違和感。
鏡の中に映る自分の姿が、数千、数万に分裂し、それぞれが異なる動きを始める。
ある鏡の中のセイマは泣き、ある鏡の中のセイマは笑い、ある鏡の中のセイマはスカルペルに切り裂かれ、ある鏡の中のセイマはパンを焼いている。
「これ、は……全部、俺……?」
「左様です。数多の可能性、数多の因果。そのすべてを、今この瞬間に『確定』させず、すべてを『保有』するのです」
怜の声が、直接脳細胞を揺らす。
セイマの意識は、肉体という器を突き抜け、宇宙の果てまで膨張していくような錯覚に陥った。
これまで「なんとなく」感じていた周囲の危険、空気の流れ、人の殺意。それらがすべて、鮮明な「情報の束」となって、脳内に濁流のように流れ込んでくる。
(……すごい。情報が、多すぎる……!)
パンクしそうな脳。だが、その極限状態で、セイマは無意識に「整理」を始めた。
バイト先でのベーグルの焼き加減。
大学で読んだ量子力学の数式。
父の遺した懐中時計の歯車。
それらがパズルのピースのように組み合わさり、巨大な一つの幾何学模様を形成していく。
「マスター! 脳波データ、計測不能な領域へ突入! 精神構造が……多次元展開を開始しています!」
堂の外でリナが叫ぶ。
そして、光が頂点に達した瞬間。
セイマは、視た。
自分の頭上から伸びる、無限に枝分かれした「糸」の先を。
その一本一本が、数秒後の未来を示している。
彼はなぜか無意識にそのことを理解した。
その数秒後ー
光が収まり、堂内に静寂が戻った。
無数の鏡は、役目を終えたかのように輝きを失い、吊るされた水晶の破片も動きを止めている。
祭壇の中央。
神月木セイマは、依然として座ったままだった。
だが、その雰囲気は、一分前とは劇的に異なっていた。
「……マスター?」
リナが恐る恐る近づき、セイマの顔を覗き込んだ。
セイマはゆっくりと目を開けた。
その瞳は、以前のような眠たげな黒ではなく、深淵な宇宙を湛えたような、透き通った輝きを宿していた。
「……わかった」
ポツリと漏らした最初の一言。
その声には、以前のような「怯え」や「戸惑い」は一切なかった。
ただ、世界を受け入れた者の、絶対的な静寂があった。
怜は満足げに微笑み、深く頭を下げた。
「おめでとうございます、セイマさん。枷は外れました。これからのあなたは、運命に抗う必要はありません。……あなたが、運命そのものなのですから」
(……運命そのものってなに?)
セイマは立ち上がろうとした。その動きは、リナのハイスピードカメラですら捉えきれないほど、淀みがなかった。
「立ち上がる」という動作の前に、既に「立ち上がった後の重心」に体が移動しているような、因果を超越した動き。
「……素晴らしい」
リナは、膝から崩れ落ちた。感動で涙が止まらない。
「ついに……ついに私は、生きた『真理』の誕生に立ち会えたのですね……!」
ルッツも、その場に平伏した。
「師匠……。もはや言葉もありません。貴公の背中に、銀河が見えますぞ!」
(……銀河って、怖いよ。あと、怜さん、目の色が違うから。絶対また『何も覚えてない』モードになろうとしてるでしょ……)
セイマの頭脳は超進化した。
しかし、彼の「普通の大学生として平穏に生きたい」という根本的な願望は、変わっていなかった。
むしろ、能力が「解放」されたことで、周囲の狂信者たちの熱量はさらに加速し、彼の平穏は完全に、宇宙の彼方へと消し飛んだのである。
「あの~……次は、何をすればいいですか?」
何気なく言ったセイマの言葉を、三人は「飽くなき向上心」と受け取り、隠れ里に再び、歓喜の咆哮が響き渡った。
セイマの受難の日々は、ここからが本当の始まりだった。
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