第21話:忘却の巫女 — 逃げられない儀式 —【前編】
隠れ里の朝は、残酷なまでに美しかった。
窓の外からは澄んだ空気と共に、早起きの小鳥たちが奏でる無邪気な歌声が聞こえてくる。
障子の隙間から差し込む朝日は、畳の目を黄金色に染め上げていた。
だが、離れの客室で布団にくるまっている神月木セイマにとって、その光は網膜を焼く毒でしかなかった。
「……死ぬ。間違いなく、死ぬ一歩手前だった……」
セイマは、脂汗でじっとり濡れた枕に顔を埋め、昨夜の光景を思い出していた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、月光の下で銀色の真剣を振り回し、酒瓶をラッパ飲みしながら「逃げなさい、因果を断ち切りますよ!」と絶叫していた、あの女性――地神 怜の姿だ。
池に飛び込んだ際の打撲、全力疾走による筋肉の断裂(自称)、そして何より「親戚の綺麗なお姉さんに真剣で斬り殺されかける」という精神的ダメージ。
セイマは一睡もできぬまま、朝日を迎えていた。目の下には、もはや化粧では隠しきれないほどの深い漆黒のクマが刻まれている。
その時、静寂を破って、廊下から衣擦れの音が近づいてきた。
スッ、と音もなく障子が開く。
「おはようございます、セイマさん。よく眠れましたか?」
そこに立っていたのは、昨夜の狂気が嘘のような、清廉潔白を絵に描いたような巫女姿の怜だった。
透き通るような白い肌、凛とした藍色の瞳。乱れ一つない綺麗な黒髪、手には湯気の立つ茶器と、丁寧に盛り付けられた朝粥の盆を捧げている。
「……ひ、ひいいいっ! 刀! 刀は持ってないですよね!?」
セイマは悲鳴を上げ、芋虫のような素早さで布団を引きずりながら部屋の隅へと後退した。
壁に背中を打ち付け、ガタガタと震えながら怜の手元を凝視する。
怜は、お盆を持ったまま小首を傾げ、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「刀……? ああ、奉納用の真剣のことでしょうか。あれは神域に代々伝わる神聖なものですから、私たち一族でも、みだりに持ち出すようなことはいたしませんよ。ましてや、お客様のいるお部屋に持ってくるなんて……そんな不作法、いたしません」
その声は、春のそよ風のように穏やかで、一分の曇りもない。
セイマは呆然とした。
「……え? 嘘。だって昨夜、あんなに……『逃げなさい、セイマさん! 因果ごとバラバラにして差し上げますよ!』って、真剣で僕の頬を掠めて……!」
「あら……。セイマさん、もしかして怖い夢でもご覧になったのですか?」
怜は、さも心配そうに盆を畳に置くと、膝をついてセイマに歩み寄った。
「私、夕食の席で少しばかりお酒をいただいたところまでは覚えているのですが……あまりの楽しさに、そのまま心地よく眠ってしまったようです。今朝は少し頭が重い気がいたしますが、何か、失礼なことでもいたしましたか?」
(……本気だ。この人、本気で覚えてない……!)
セイマの背筋に、昨夜の真剣の冷たさとはまた別の、根源的な恐怖が走った。目の前の巫女は、無自覚に「死神」を飼っているのだ。
「失礼どころか、殺されるところだったんですよ! ほら、見てください! あの床柱の斬り跡を!」
セイマが必死の思いで指差した先。そこには、昨夜の「夜稽古」の凄まじさを物語るように、重厚な床柱に深く、鋭利な、そして迷いのない斬撃の痕が刻まれていた。
怜はそっと口元に手を当て、その跡をまじまじと見つめた。
「あらあら……これは、凄まじい『剣気』ですね。これほどまでに鋭く、因果を断ち切るような迷いのない一撃……。この離れに、どなたか刺客でも入り込んだのでしょうか?」
「いや、ですから、怜さんがやったんですよ! お酒飲んで暴れて!」
「ふふ、セイマさんは本当にお茶目ですね。私のような、武術の嗜みもない非力な巫女に、これほどの真似ができるはずがありません。……そうですね、これはきっと、セイマさんの内に眠る力が、睡眠中に無意識に溢れ出した証拠ではありませんか?」
「……はぁ!? どうして僕のせいになるんですかぁ!?」
セイマが絶望的な表情でいると、入り口からリナとルッツが当然のように入ってきた。
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