第2話:暴動を回避する賢者 — 戻らない平穏な日常 — 【後編】
その夜。
マックスが「奇跡が撮れた」としてSNSにアップロードした動画は、現代の劇薬となって瞬く間に世界を埋め尽くした。
最初は「フェイクだ」「映画の宣伝だ」という声が上がった。
しかし、複数の角度から撮影された別人のスマホ映像や、現場に残された暴徒たちの証言が重なるにつれ、ネット上の熱狂は臨界点を超えた。
「#IceSage」
そのハッシュタグは、わずか三時間で世界トレンドの一位を独占した。
暴徒の群れを、まるで行進でもするかのような足取りで無力化し、一言も発さず霧の中に消える東洋人の青年。
その神秘的で圧倒的なたたずまいに、人々は救世主を見出したかのように熱狂した。
『彼は何者だ? 秘密結社のエージェントか?』
『いや、現代に転生した本物の魔術師だよ』
『この静かな強さ……彼は現代に隠れ住む「賢者」だ』
一方、日本のとある一般家庭。
リビングに、女子高生の妹・陽葵の絶叫が響き渡った。
「……はぁ!? ちょっと待って、これ、お兄ちゃんじゃない!? なんでイギルニアで無双してるのよぉ!」
彼女が差し出したスマホ画面には、スロー再生されるセイマの姿。
「あらあら、本当ね」
母親の優は、テレビに映る「世紀の映像」を眺めながら、のんびりと煎茶をすすっている。
「でもセイマに似た人なんて世の中にはたくさんいるものよぉ。似た人が、たまたまセイマがよく着ていた服を着ていて、セイマがよく読んでる本を持って、セイマそっくりの寝癖をつけてるだけじゃない?」
「お母さん、それ本人って認めてるようなもんだからね!?」
しかし、世界の深淵に住まう者たちは、この事象を別の視点で見ていた。
ある科学研究所。
「見てください、この首の角度。そして重心の移動」
若き天才学者が、映像をコマ送りにして震える指で画面を指した。
「彼は『反射』をしていません。脳が周囲の全素粒子情報を先読みし、事象が確定する前に回避行動を完了させている。これはもはや、人間を超越した演算能力……。後天的な学習ではなく、『先天的賢者』としか言いようがありません」
そして、東欧の山岳地帯にある秘密基地。
壁一面のモニターに囲まれた薄暗い部屋で、国際テロ組織のトップ、ドクター・ヴェインが不気味に喉を鳴らした。
「……ついに見つけた。私の計算式の中にだけ存在していた、完璧なる『特異点』。人類の進化を一段階飛ばした個体。待っていてくれよ、青年。君のその脳、ぜひ私のコレクションに加えさせてもらおう」
数日後。
セイマは、パン屋の二階にあるわずか四畳半の部屋で、枕に顔を埋めて悶絶していた。
「……国際指名手配犯になった気分だ……」
窓の外には、すでに何人かのパパラッチらしき影が見える。
大学のメールボックスはパンクし、昨日バイト先に行けば、店長から突然こう告げられた。
「セイマ君……君がいると、パンが売れすぎて困るんだ。主に、君をひと目見ようと押し寄せた女の子たちの行列で、近所から苦情が相次いで限界なんだ。頼む、しばらく休暇を取ってくれ!」
満面の笑みでのクビ宣告。あるいは、慈悲深い追放。
大学に行けば行ったで、普段はごう慢な教授陣が「君の脳のMRIを撮らせてくれないか」「今すぐ私の助手になってくれ」と目を血走らせて追ってくる。
平穏な読書生活は、ガラス細工のように脆く、音を立てて崩れ去った。
「どうしてこうなった……。僕はただ、焼きすぎたベーグルを食べて、量子力学にふけりたかっただけなのに……」
そんな時、ドアの隙間から一通の封筒が差し込まれた。
大学の事務局からの速達。だが、その外見はあまりに異様だった。
白銀の縁取りがなされた、重厚な革のような質感の封筒。
表書きには、金文字でこう記されている。
『国際超常科学研究所(I.I.P.S.) 主催:世界科学技術フォーラムへの招待状』
「……旅費、滞在費はすべて研究所持ち。目的地は、人里離れた中立地帯の島、か」
セイマは少しだけ考えた。
ここにいても、もはや「日常」は戻ってこない。
窓の外で光るフラッシュ、SNSの通知音、そして「賢者」と崇める不気味な視線。今の自分には、そのすべてが騒がしすぎる。
「少しの間、休学しよう。落ち着くまでどこか遠くへ行ければ、それでいい。島ならパパラッチも来ないだろうし」
彼は愛読書を一冊、クタクタのリュックに詰め込んだ。
そして、現実逃避の締めくくりとして、冷蔵庫に残っていた最後のご褒美――特売のプリンをスプーンですくう。
「うん……やっぱりこのメーカーのカラメルは最高だ。幸せだなぁ……!」
プリンを食べて至福の表情を浮かべる青年は、この時まだ知らなかった。
この招待状が、のちに彼をさらなる混沌へと引きずり込み、「神格化」しようとする強大な存在たち――「ご解者たち」との邂逅の布石であることを。
プリン好きな賢者は、霧に包まれたイギルニアを密かに後にした。
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