第17話:聖者の発奮 — 崖っぷちの生存戦略 —【前編】
深夜の「執刀未遂事件」は、神月木セイマの脆弱なメンタルに、決定的な、そして絶望的な意識革命をもたらした。
これまでは「いつか誤解が解ければ、イギルニアでパンを焼く普通の日常に戻れる」と楽観視していた。
だが、ついに彼は理解したのだ。この「アカデミア・アイランド」という異常者たちの吹き溜まりでは、「僕はただの一般人だ」といくら叫んだところで、その主張が受理される前に、物理的にバラバラに解体されて人生が終了する。
死にたくない。
その、生物としてあまりにシンプルで切実な生存本能が、ついに重い腰を上げさせた。
事件の翌朝。
セイマは、リナが用意した超豪華な朝食(栄養素が分子レベルで最適化されすぎて、味が一切しない「無味無臭の結晶ゼリー」)を前に、珍しく悲壮な決意を秘めた表情で切り出した。
「リナ……。俺、特訓するよ。このままじゃ、次に死神が来た時、本当にジグソーパズルのピースにされてしまう」
その言葉を聞いた瞬間、リナの手からフォークが乾いた音を立てて床に落ちた。彼女の脳内では、「ついにマスターが自らの神性を受け入れ、全宇宙を支配する真の覚醒を望まれた!」という、一ミリの妥当性もない都合の良い解釈が光速で駆け巡る。
「……っ! ついに、ついにその時が来たのですね、マスター! あなたのポテンシャルを100%引き出し、因果律をその手で掌握するための特訓メニューなら、既に十万通り用意してあります!」
「いや、そんなにはいらないんだけど……。三つくらいでいいんだけど……」
背後の壁に向かって、親指一本での逆立ち腕立て伏せをしていたルッツも、すぐさま着地し研究所の床を猛ダッシュしてきた。
「おおお! 師匠、ついにその重い腰を上げられましたか! このルッツ・ベルナー、地獄の果てまで、たとえこの身が砕け散ろうともお供いたしますぞ!」
セイマの目的は、あくまで「襲われた時に安全に逃げ切り、できれば物陰に隠れてやり過ごすための、最低限の護身術」だった。
しかし、指導役を買って出た二人の天才は、完全に「対・魔王用最終決戦」のノリで挑んできた。
まずリナが提案したのは、最新技術の粋を集めた「論理的特訓」だった。
「マスター、このVRゴーグルを。全自動で四方八方から迫りくるレーザー弾に対し、脳が認識するより早く、神経系が回避ルートを自動網羅させる『ニューロ・フィードバック・トレーニング』です。失敗すると微弱な電流が脳を刺激し、強制的に進化を促します」
(………電気ショック!)
「いや……特訓後、VR酔いでトイレに駆け込む俺の未来が『確定』しているので、無しでお願いします」
次にルッツが鼻息を荒くして一歩前に出る。
「ならば『実践的特訓』です! 私が目隠しをした師匠に、あらゆる死角から真剣……は流石にリナ殿に消されるので、全力の鉄芯入り木刀で襲いかかります。それを心眼で回避、あるいは真剣白刃取りしてください!」
「どんな達人でも目隠しであなたのフルスイングを回避できませんよ! 下手すれば人生そのものが物理的に終わる未来しか視えない……。」
(……ダメだ。この環境では、まともに成長する前に死んでしまう……)
セイマが頭を抱え、絶望に打ちひしがれたその時。
彼の脳裏に、今は亡き父親――神月木 鉄真が遺した、奇妙な言葉が蘇った。
『セイマ、いいか。いつかお前が、どうしても強くなりたい、あるいは守りたいと思う日が来たら……この動かない懐中時計を開いてみろ。そこに全ての答えがある』
幼い頃に手渡され、針が一度も動いたことのなかった古びた銀の懐中時計。セイマが祈るような気持ちで、その蓋を開くための突起を押し込むと、カチリ、と硬質な音が響いた。
次の瞬間、時計の文字盤から青白い光が溢れ出し、空間に精緻な立体ホログラム地図が浮かび上がった。
「……動かなかったはずの時計が。これ、父さんの故郷……日本の、山奥?」
リナの瞳が、かつてないほど鋭く輝いた。彼女はすぐさまデバイスを取り出し、空中に浮かぶ光の粒子をスキャンしたが、返ってきた結果は驚愕すべきものだった。
「信じられません。このホログラム投影技術……プロジェクターが存在しない? 磁場を直接操作して、空気中の光子を固定している? 現代の量子力学の理論では説明不可能な『オーバーテクノロジー』です。マスター、あなたのお父様は一体何者だったのですか……」
父の正体、そして時計が示す未知の地点。セイマは真相を確かめるため、そしてリナたちの狂気的な特訓から逃れる口実も兼ねて、日本へ向かうことを決意した。
当然のようにリナとルッツが「絶対についていく」と言い張り、結局三人での「聖者、極東へ帰還する」の幕が上がった。
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