第13話:死神の訪問 — 銀の執刀医は音もなく —【前編】
ルッツ・ベルナー大尉という、筋肉と勘違いで構成された「新たな保護者(自称・一番弟子)」が加わったことで、リナの研究所はもはや科学の殿堂というよりは、奇行種が集う閉鎖病棟のような様相を呈していた。
セイマの日課は、廊下の隅で「慣性モーメントッ!」と叫びながら片手懸垂に励むルッツを、ゴミを見るような目で見つめるリナと共に回避し、研究所の奥にある「聖者の実験室」(……被験ボランティア)に向かうことであった。
しかし、その日の夜。
アカデミア・アイランドの夜を支配する、研究施設の重低音と潮騒のハーモニーの中に、あってはならない「無音」が紛れ込んだ。
リナ・フォン・シュタインが構築した、総工費数十億ドルの防衛網。
網の目のように張り巡らされたレーザートラップ、空気の振動を感知する超音波探知機、さらには床に触れる質量さえも逃さない感圧センサー。それら全てが、今この瞬間、沈黙を守っていた。
島の南東、切り立った断崖の陰から、一人の人影が重力を無視したかのような足取りで舞い降りた。
純白の軍医用ロングコート。夜の闇の中でも一切の汚れを許さないその白さは、これから行われるであろう残酷な「処置」に対し、あまりにも対照的な清潔さを放っている。
風になびくコートの裾から覗くのは、高周波振動メス「エレクトラム」。
月の光を吸い込み、青白く、不吉な銀の光を湛えている。
スカルペル。
ドクター・ヴェノンが放った、最凶にして「最狂」の執刀医。
彼の右目は義眼であり、わずかな光さえも増幅して対象を捉える。
それどころか、熱源探知とX線スキャンを同時に行い、獲物の内部構造――骨、血管、神経の走行をリアルタイムで「透視」することが可能だった。
スカルペルは、厳重なセキュリティを文字通り「切り裂き」ながら、研究所の深部へと侵入していった。
彼にとって、世界最高の科学力が構築したはずの防御システムは、ただの「薄い表皮」に過ぎない。エレクトラムの刃が微細に震え、防御壁の分子結合を瞬時に解体し、音もなく、光さえ漏らさずに崩れ落ちていく。
その潜入の途上、彼は廊下で奇妙な音を耳にした。
「――ハッ! 師匠の教えは、この重力下における筋繊維の最適化にあり! 数式を筋肉に刻め、私よッ!」
ルッツ・ベルナーだった。
彼は上半身裸のまま、天井の配管に指先一本でぶら下がり、凄まじい速度で懸垂を繰り返していた。その足元には、難解な流体力学の数式がびっしりと書き込まれたホワイトボードが置かれている。
汗と知性が混濁した、あまりに暑苦しい光景。
「……異物。排除の必要はないが、非常に騒がしい。思考のノイズだ」
スカルペルは、ルッツの視界の端を、風に舞う塵のような自然さで通り過ぎた。
ルッツは今、セイマへの異常な執着と、自分の中で勝手に理論化した「賢者格闘術」の構築に夢中で、背後を通り過ぎた死神の冷たい息吹にすら、全く気づくことはなかった。
さらに奥へ進むと、今度は別室から耳をつんざくような爆発音と、目に痛いほどの閃光が漏れ出してきた。
「――ふふふ、この電磁波誘導型プラズマ砲は、マスターの護身用として最適化されています! これでマスターの周囲百メートルは、塵一つ残らない絶対領域に!」
リナ・フォン・シュタインが、深夜のテンションでセイマ用の「新兵器(という名の過剰防衛兵器)」の試射を行っていたのだ。その実験の巻き添えを食い、焼け焦げた髪を押さえて研究員たちが悲鳴を上げながら逃げ出していく。
「……愚かな。目的を見失い、無駄なリソースを浪費している。愛とは、もっと静かで、深いものだ」
スカルペルは、研究所内のカオスすぎる「日常」に一切動じることなく、ただ淡々と足を進めた。
彼の心には、ドクター・ヴェノンの命令を超えた、外科医としての純粋な欲求しかなかった。
セイマという、因果を歪める「極上の検体」を、この手でバラバラに解剖してみたいという、狂気の渇きであった。
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