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第1話:暴動を回避する賢者 — 戻らない平穏な日常 — 【前編】

挿絵(By みてみん)

イギルニア国立大学の時計塔が、重厚な音色で午後三時の訪れを告げた。


霧の都と称されるこの街では、日差しさえもどこか遠慮がちに石畳を照らす。その古めかしい校舎の影から、一人の青年が姿を現した。


神月木かづきセイマ。十九歳。


寝癖のついた黒髪は、最後に鏡を見たのがいつかを疑わせるほど無頓着に跳ねている。眠たげな黒い瞳をこすりながら、彼は大きくあくびを漏らした。


「ふあぁ……。今日の講義、教授の脱線が長かったな。シュレディンガーの猫の話から、どうして中世の猫狩りの歴史に飛ぶんだか……」


小脇に抱えているのは、見る者が思わず眉をひそめるほど分厚い学術書だ。


表題には『量子力学における多世界解釈と古代ギリシャ哲学の親和性』とある。

一般の大学生なら一頁目で挫折するであろう代物だが、彼にとっては、バイトの合間に読む「ちょうどいい娯楽」に過ぎなかった。


セイマは十七歳でこの名門校に飛び級入学した「異端児」だ。しかし、本人にその自覚は微塵もない。


彼にとって、世界を構成する数式や論理を理解することは、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだった。

むしろ、彼を悩ませているのはもっと「現実的」な問題だ。


「……さて、バイトまで少し時間があるな。図書館で続きを読もうか。それとも、先にパン屋の様子を見に行くべきか」


彼は独り言をいいながら、財布の中身を思い浮かべる。


今月の奨学金はすでに参考書代に消えた。生活を支えるのは、自室の一階にあるパン屋での早朝バイトと、週二回の家庭教師。


「今日のベーグル、店長が気合入れすぎて少し焼きすぎたって言ってたな。余り、もらえると助かるんだけど。冷凍しておけば当分持つし」


そんな、およそ「天才」とはかけ離れた庶民的な思考にふけりながら、彼は大学の正門を抜けた。だが、いつもなら穏やかな学生たちが往来するはずの大通りは、今日に限っては異様な熱気に包まれていた。


「移民を追い出せ!」


「我々の仕事を奪う奴らに鉄槌を!」


大通りに出た瞬間、鼓膜を破るような怒号がセイマを襲った。

数万人規模の群衆。掲げられたプラカードには、過激な排外主義の言葉が飛び交っている。


霧の都を象徴する灰色の空の下で、人々の顔は怒りと憎悪によって醜く歪んでいた。


セイマは足を止めた。


「……最悪だ。道を変えよう」


彼は争い事が嫌いだった。正確に言えば、争いに伴う「非論理的なエネルギーの浪費」が理解できなかった。


踵を返し、細い路地へ逃げ込もうとした、その時。


「おい、そこにいる東洋人! お前も不法移民か!」


背後から飛んできた鋭い声。


振り返れば、三十人ほどの屈強な男たちが、デモの本体から離れてこちらを睨みつけていた。


彼らの手には鉄パイプ、角材、そして中身の詰まった空き瓶。

集団心理という名の狂気に当てられた彼らの瞳には、もはや言葉を介する余地など残っていない。


「いや、僕はただの留学生ですよ。来年卒業したら日本に戻る予定ですし、そもそもパン屋でバイトしてるだけの一般人なんですけど……」


セイマは極めて冷静に、事実を羅列した。だが、それは火に油を注ぐ結果にしかならなかった。


「うるさい! エリート気取りの寄生虫め、叩き出せ!」


先頭の男が、血管を浮き上がらせて重い鉄パイプを振り下ろす。

セイマは小さく、深い溜息をついた。


いつものことだ。自分はどうも、計算外の「不運」に巻き込まれやすい星の下に生まれたらしい。


「……仕方ない。本に傷がつくと困るし」


彼はパタン、と手にしていた難解な本を閉じた。


その瞬間。

周囲の空気が、まるで異次元のような何とも言えない雰囲気に一変した。


その場に居合わせた報道カメラマンのマックスは、後に興奮した声でこう語っている。


「あれは、人間の動きではなかった。物理法則が、彼の一周囲だけ書き換えられたようだった」


マックスは、暴動の様子を記録するために最新鋭のデジタル一眼レフを構えていた。だが、ファインダー越しに見える光景は、彼の理解の範疇を超えていた。


男たちが一斉に襲いかかる。怒号、風を切る音、純粋な殺意。

しかし、セイマは一歩も引かない。


男の振り下ろした鉄パイプが、セイマの側頭部を捉える――はずだった。

だが、セイマがわずかに首を傾けると、銀色の棒は耳元を数ミリの差で空振りした。


避けた、というよりは、最初からそこに「パイプを通すための隙間」が存在していたかのような自然さだった。


「な、なんだ!? 当たらない!」


「ちょこまかと! コノヤローッ!」


次々に繰り出される暴力の嵐。

だが、セイマは舞うように、あるいは流れるように半歩、前後左右に踏み出すだけ。


それだけで、周囲から迫った男たちは自分自身の勢いでバランスを崩し、石畳に這いつくばった。


「くそっ、ピントが合わない!」


マックスは焦燥に駆られながらもカメラを回し続けた。


最新の高速オートフォーカス機能が、セイマという個体を捉えられないのだ。彼が動くたびに、まるで世界からその存在が切り取られたかのように、彼はフレームの端から端へと「消える」。


セイマの動きは、武術というよりは、極めて精密な物理演算の結果だった。

相手の重心の位置、筋肉の収縮から予測されるベクトル、肺の動きから読み取るタイミング、そして周囲を流れる風の抵抗。


そのすべてを脳内で並列処理し、最小の、かつ最も優しい「接触」で、相手の力を無力化していく。


ガシャン、と瓶が割れる音。だが、飛散した破片の一片すら、彼の衣服に触れることはない。


気が付けば、三十人の大男たちが息を荒らげながら、あるいは困惑しながら石畳の上に転がっていた。

驚くべきことに、一人の負傷者も出すことなく。彼らはただ、自分の力が空回りし、自分に裏切られただけだった。


「……ふぅ。よし、本は無事だな」


(……それよりさっきの攻撃どういうこと、超怖かったぁぁぁ。速攻アパートに帰ろう!)


内心で冷や汗をかきながら、セイマは何事もなかったかのように本を小脇に抱え直し、少し速足で霧の向こうへと消えていった。


マックスのカメラには、その暴動の一部始終が記録されていた。

ピンぼけし、フレームアウトを繰り返す不完全な映像。だが、その中に一瞬だけ、完璧なピントで写り込んだ瞬間があった。


それは、霧の中でこちらを振り返った青年の横顔。


その瞳は、透き通るような黒い氷のようでありながら、どこかすべてを許容する慈愛に満ちたものでだった。

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