フェリオ内戦概要記
フェリオ暫定統一自治政府は、一九九八年十一月、ティレン連邦共和国の首都アル=セラームにおいて調印された停戦協定を直接の契機として発足した暫定政権である。それは単なる停戦管理機構ではなく、一九八二年頃から事実上不在となっていた「統一された中央政府」を再建するための、極めて脆弱かつ実験的な統治体制であった。フェリオは一九八〇年頃より内戦状態に突入し、旧中央政府は財政破綻と軍の分裂、地方有力者の離反、そして外国勢力の干渉によって統制能力を急速に失い、ついには崩壊した。以後十数年にわたり、フェリオは国際社会において「地図上の国家」でありながら実体を欠く空間となり、港湾は武装勢力の徴税所と化し、内陸の幹線道路は検問と略奪の連鎖によって寸断され、通貨フェリオ・ディナールは暴落と代替通貨の乱立によって信用を失った。
内戦の主軸を形成したのが、アル・ヌディア戦線と南部評議会である。アル・ヌディア戦線は一九八一年三月、国内の反政府イスラーム主義勢力を糾合して結成された武装組織であり、旧政府の世俗主義と腐敗を厳しく糾弾し、イスラームの信仰に基づく国家建設を掲げた。彼らの思想的源流は、国内の伝統的ウラマー層と、国外留学経験を有する若手宗教活動家の結合にあったとされるが、実際の組織構成はより複雑で、旧軍の脱走兵、地方有力部族の青年層、さらには都市貧困層のネットワークが交錯していた。主たる拠点は北東部の農牧地帯および旧国境交易路沿いに集中していたが、内戦初期の機動戦術と宗教的正統性の訴求によって、国内各地に飛び地的拠点を形成し、全国的な勢力として認識されるに至った。戦線はシャリーアの段階的導入、ザカートの徴収制度化、腐敗官僚の排除を掲げ、地域によっては裁判所と治安部隊を自前で設置し、準国家的統治を試みた。
一方、南部評議会は一九八三年六月、中央政府崩壊後に深刻化した南部の治安悪化と、アル・ヌディア戦線をはじめとする諸武装勢力の頻繁な侵入に対抗するため、南部諸都市が軍事・経済・行政面での相互協力を約束したことを起源とする同盟体であった。港湾都市サハティー、穀倉都市バルキア、交易都市ラフム、工業拠点ナージャルなどが中核をなし、都市民兵と旧警察組織の再編を軸に防衛体制を構築した。評議会は当初、あくまで都市防衛のための協調機構であったが、関税徴収、港湾管理、独自通貨券の発行、さらには教育・医療の共同予算化に踏み込み、事実上の地域政府へと変容していった。しかし内部では有力市同士の頻繁な政争が絶えず、港湾収入の配分、治安権限の集中、外資導入の是非を巡って対立が激化した。現在実権を握るのはサハティー市長官ウマルであり、彼は港湾収入の再分配と都市民兵の統合指揮権掌握を通じて影響力を強め、評議会議長の座に就いた。
両者は長年にわたり敵対関係にあった。アル・ヌディア戦線は南部を「堕落した商業都市の連合」と批判し、南部評議会は戦線を「外来思想に汚染された過激武装勢力」と断じた。局地戦、包囲戦、暗殺、港湾封鎖が繰り返され、特に一九九四年から九六年にかけては北東部から南下した戦線部隊と南部民兵の大規模衝突が相次いだ。しかし内戦の長期化は双方に疲弊をもたらした。交易の停滞は戦線の財源を圧迫し、干ばつと疫病は支配地域の社会基盤を揺るがした。南部評議会もまた、内部抗争と経済停滞、難民流入に直面し、単独での持続的安定が困難であることを痛感した。
この膠着を打破したのがティレン連邦共和国の仲介であった。ティレンはフェリオと歴史的交易関係を有し、内戦の長期化が地域海上交通とエネルギー輸送に与える悪影響を憂慮していた。ティレン外務省特使ハーリド・マシュールの主導のもと、水面下の接触が重ねられ、一九九八年十一月、停戦協定が成立した。協定は即時停戦、捕虜交換、主要都市への共同監視団派遣、段階的武装解除の枠組みを含み、さらに国内の統一とフェリオの国際復帰を目的として、暫定的な統一政府を樹立することを定めた。
こうして発足したのがフェリオ暫定統一自治政府である。大統領には南部評議会議長ウマルが就任し、副大統領にはアル・ヌディア戦線首領ヌハーディが就いた。両者は共同声明において「信仰と自治の調和」「国家主権の回復」「国際社会への責任ある復帰」を掲げた。閣僚配分は南北勢力の均衡を意識し、内務・財務は南部評議会系、宗教・司法は戦線系が主導し、国防は合同委員会方式とされた。首都機能は中立地帯とされた旧行政都市マルジーンに暫定的に置かれ、旧中央銀行の再建、統一通貨の再発行、国連および周辺諸国への外交使節派遣が急がれた。
しかしこの統一は決して盤石ではなかった。アル・ヌディア戦線内部では、他勢力との妥協を「信仰の後退」とみなすより過激な派閥が存在していた。彼らはヌハーディの合意を裏切りと断じ、戦線から離脱してフェリオ・イスラーム解放機構を結成し、武力抵抗を継続した。解放機構は山岳地帯や国境地帯に拠点を置き、自爆攻撃や要人暗殺、統一政府施設への襲撃を行い、暫定政権の正統性を揺さぶった。暫定政府はこれに対し、軍事的鎮圧と同時に宗教的説得、恩赦政策、経済再建プログラムを組み合わせる複合的対応を試みたが、治安は依然として不安定であった。
それでもなお、フェリオ暫定統一自治政府の成立は、十六年に及ぶ無政府状態に終止符を打とうとする歴史的試みであった。ウマルは都市行政の実務能力と港湾経済の再建を通じて国際社会の信頼を取り戻そうとし、ヌハーディはイスラーム的正統性を背景に戦線支持層の離反を抑えようとした。両者の関係は緊張と協調の間を揺れ動きながらも、「国家」という枠組みを再構築するという一点において利害を共有していた。
フェリオの歴史において、一九九八年十一月は単なる停戦の日ではない。それは、宗教と都市自治、武装闘争と行政実務、理想と妥協が交錯する中で、崩壊国家が再び国家たろうとした瞬間であった。その成否は未だ確定していないが、アル・ヌディア戦線と南部評議会という本来相容れぬ二勢力が同一の政府の旗の下に立ったという事実そのものが、フェリオ現代史における最大の転換点であったと言える。
フェリオ暫定統一自治政府は、その成立の瞬間から、統一という理念と分裂という現実の間に引き裂かれた、きわめて脆弱な構造体であった。停戦協定は戦闘を減衰させはしたが、戦争を終わらせたわけではなかった。最も象徴的なのは、アル・ヌディア戦線と南部評議会の軍事組織が解体されることなく、そのまま「国軍級組織」として並列的に扱われた点である。形式上は暫定政府の下に置かれたものの、実際には両者はそれぞれ独自の指揮系統、補給網、情報部門、徴兵・徴募制度を維持し、統合参謀本部は調整機関にとどまった。国防相は名目上存在したが、命令は常に「協議事項」とされ、拒否権は事実上各勢力に留保された。
この二重軍事体制は、単なる妥協の産物ではなく、相互不信の制度化であった。アル・ヌディア戦線は武装解除を「信仰の担保の放棄」とみなし、南部評議会は民兵解体を「都市防衛の自殺」と捉えた。結果として、国内には二つの正規軍が併存するという、主権国家としては異例の状況が固定化した。共同パレードでは同一の国旗が掲げられながら、兵士たちの徽章と敬礼様式は異なり、軍事学校の教範も統一されなかった。
実務面でも、統治区域は明確に分割されていた。北東部および内陸部の広範な地域はアル・ヌディア戦線の行政機構が担い、シャリーア裁判所と宗教警察が治安を維持した。一方、南部沿岸都市群とその周辺は南部評議会の都市行政が支配し、商事裁判所と市警察が機能した。税制、教育課程、公共放送の内容に至るまで差異が残り、暫定政府の布告は両勢力の同意がなければ実施されなかったため、国家法令はしばしば「地域的勧告」に矮小化された。マルジーンの中央官庁は存在したが、その権威は常に現地司令官や市長の裁量に従属した。
こうした分断をさらに深刻化させたのが、フェリオ・イスラーム解放機構やアルカイダ系のフェリオ殉教者旅団など、統一に反対する武装勢力の跋扈であった。解放機構はアル・ヌディア戦線の穏健化を「背信」と断じ、山岳地帯から都市への浸透攻撃を繰り返した。フェリオ殉教者旅団はより国際的ネットワークを有し、国外から流入する資金と戦闘員を背景に、爆破テロや要人暗殺を遂行した。彼らの存在は暫定政府の治安能力を試すだけでなく、アル・ヌディア戦線内部の強硬派を刺激し、ヌハーディに対する圧力ともなった。治安作戦を共同で行おうとする試みは、指揮権や作戦区域を巡る対立によってしばしば頓挫した。
政権中枢においても対立は激化した。大統領ウマルは国家再建と国際復帰を優先し、行政の統一と軍の統合を段階的に進めるべきだと主張した。彼にとって統一とは、港湾の再開、外国投資の誘致、国際金融機関との関係回復を可能にする制度的安定を意味した。一方、副大統領ヌハーディは、急進的な統合は戦線の支持基盤を失わせ、結果的に解放機構の台頭を招くと警告した。彼はイスラーム的統治原理の保持と、戦線の自律性確保を譲れぬ一線とした。閣議はしばしば決裂し、共同声明は妥協的な抽象表現に終始した。
ティレン連邦共和国の仲介時に定められた民主的選挙の履行は、こうした状況下で次第に空文化していった。選挙人名簿の作成すら、統治区域の分断と治安不安により困難であった。解放機構は選挙を「不信仰な制度」として攻撃対象に指定し、投票所予定地への脅迫を行った。国連からの調停団派遣案も浮上したが、副大統領ヌハーディは自らの勢力圏に国際監視団が立ち入ることを強く拒否し、主権侵害であると主張した。彼は国連の存在が戦線の統治正統性を相対化し、内部の強硬派を利するだけだと判断したのである。
大統領ウマルは、アル・ヌディア戦線の完全統合を進めるため、国連軍の限定的派遣を求める構想を抱いた。中立的武装勢力による緩衝と武装解除支援がなければ、実質的統合は不可能だと考えたからである。しかし、この構想が浮上すると、アル・ヌディア戦線は政権からの離脱を辞さない姿勢を示し、停戦そのものが崩壊しかねない緊張が走った。最終的にウマルは構想を取りやめ、表向きは「国内問題は国内で解決する」との立場を表明せざるを得なかった。
このように、フェリオ暫定統一自治政府は、統一を掲げながらも分裂を内包し、主権を主張しながらも実効支配を限定され、民主化を約束しながらも選挙を実施できないという、矛盾の上に立つ政体であった。その活動は常に綱渡りであり、いずれか一方の勢力が離脱すれば即座に崩壊する危うさを孕んでいた。それでもなお、両者が同一の政府枠組みに留まり続けた事実は、内戦の再燃を回避しようとする最低限の理性の証左でもあった。フェリオの暫定統一は、完成された国家ではなく、崩壊を先送りしながら再編を模索する、極めて現実的で苦渋に満ちた過程そのものであった。
フェリオ暫定統一自治政府の経済的基盤は、発足当初から政治的妥協の上に築かれた砂上の楼閣であった。統一国家の象徴として一九九九年に発行された新フェリオ・ディナールは、崩壊した旧通貨体制を刷新し、分断された経済圏を再統合するための切り札とされたが、その実態は中央権力の空洞化を露呈する触媒となった。中央銀行はマルジーンに再建され、形式上は独立機関とされたものの、準備資産は枯渇し、外貨準備は内戦期に流出しており、金準備も戦乱で散逸していた。発行の裏付けは将来の鉱山収入、港湾関税、北東部油田の歳入という「見込み」に過ぎなかった。
大統領ウマルは国家予算の確保と通貨価値維持を名目に、南部評議会が所管していた鉱山および港湾収入、さらにアル・ヌディア戦線の主な財源であった北東部油田収入を中央銀行に一元化する構想を打ち出した。これは財政主権の回復という観点からは合理的であったが、実際には両勢力の自律的支配を直撃するものであった。南部評議会は港湾関税と鉱山採掘権を都市防衛と行政サービスの生命線とみなし、アル・ヌディア戦線は油田収入を戦線の戦闘員給与と宗教教育網の維持に不可欠とした。両者の反対は即座に表面化し、中央集約案は閣議で頓挫した。中央銀行は名目上の国家機関でありながら、実際には両勢力の政治的合意がなければ歳入を掌握できない無力な存在となった。
さらにアル・ヌディア戦線は、自らの支配地域においてザカートを名目とする独自徴税を継続した。信仰上の義務として徴収されたこの税は、戦線の統治正統性を補強する一方で、暫定政府の歳入と競合した。結果として、戦線支配地域では中央政府税とザカートの二重課税が横行し、商人と農民は二重の負担を強いられた。物資は闇市場に流れ、現物交換が増加し、貨幣経済は半ば崩壊状態に陥った。新フェリオ・ディナールは、中央銀行の準備資産不足に加え、両勢力が自らの軍事費・行政費を賄うために紙幣を乱発したことにより、発行からわずか一年あまりで急速に信用を失った。為替市場では暴落が続き、パン一斤の価格が週単位で倍増するハイパーインフレーションが発生した。市民は外国通貨や金、さらには石油や穀物そのものを価値保存手段とするようになり、新フェリオ・ディナールは事実上ただの紙切れと化した。
経済の崩壊は政治的不信を増幅させた。ウマルは戦線側の財政協力拒否を国家破壊行為と非難し、ヌハーディは中央集権化こそが内戦再燃の原因だと応酬した。こうした緊張の最中、二〇〇一年三月二十一日、決定的な事件が発生する。アルカイダ系のイスラーム原理主義武装勢力フェリオ殉教者旅団が、南部評議会との停戦交渉および暫定政権樹立を推進したアル・ヌディア戦線穏健派幹部アブー・ハディールと、複数の南部評議会評議員を爆殺したのである。爆発はマルジーン近郊の会議施設で発生し、和平を象徴する人物たちが一挙に失われた。
大統領ウマルはこの事件を、副大統領ヌハーディが戦線内部の過激派を扇動して引き起こしたテロであると断定した。証拠は決定的ではなかったが、ウマルは政治的決断を優先し、ヌハーディを副大統領職から罷免した。この背景には、以前からウマルがアル・ヌディア戦線の弱体化と完全統合を望んでいたという観測が根強く存在した。彼は後任副大統領として南部評議会副議長ヨハーレイを指名し、政権中枢を南部評議会系で固めた。これに対しアル・ヌディア戦線は激怒し、罷免を違憲かつ停戦協定違反と非難した。
事態は軍事的緊張へと急速に転化する。ウマルは暫定首都であり、両組織から中立とされていたマルジーンに対し、アル・ヌディア戦線による陰謀やテロから防衛するという名目の下、南部評議会軍を進駐させ、事実上これを占領した。検問所は南部軍が掌握し、戦線系将校は排除された。中立地帯の理念は崩れ、マルジーンは権力闘争の中心へと変貌した。
これを以て、アル・ヌディア戦線首領ヌハーディは暫定政権からの離脱と敵対を宣言した。彼はウマルの行為をクーデターと断じ、戦線部隊に対しマルジーンへの進軍を命じた。こうしてマルジーンの戦いが始まる。市街戦は数週間に及び、かつて共同政府の庁舎であった建物が砲撃を受け、中央銀行は炎上し、印刷されたばかりの新フェリオ・ディナール紙幣が瓦礫とともに散乱した。統一の象徴は文字通り灰燼に帰した。
この戦いをもって、フェリオ暫定統一自治政府は事実上崩壊した。統一を目指した枠組みは、経済的基盤の脆弱さ、二重軍事体制、過激派の暴力、そして指導者間の権力闘争によって内部から崩れ去ったのである。フェリオは再び分裂と内戦の段階へと回帰し、暫定統一は歴史の一章として、理想と現実の狭間で潰えた試みとして記憶されることとなった。
フェリオ暫定統一自治政府の経済的基盤は、発足当初から政治的妥協の上に築かれた砂上の楼閣であった。統一国家の象徴として一九九九年に発行された新フェリオ・ディナールは、崩壊した旧通貨体制を刷新し、分断された経済圏を再統合するための切り札とされたが、その実態は中央権力の空洞化を露呈する触媒となった。中央銀行はマルジーンに再建され、形式上は独立機関とされたものの、準備資産は枯渇し、外貨準備は内戦期に流出しており、金準備も戦乱で散逸していた。発行の裏付けは将来の鉱山収入、港湾関税、北東部油田の歳入という「見込み」に過ぎなかった。
大統領ウマルは国家予算の確保と通貨価値維持を名目に、南部評議会が所管していた鉱山および港湾収入、さらにアル・ヌディア戦線の主な財源であった北東部油田収入を中央銀行に一元化する構想を打ち出した。これは財政主権の回復という観点からは合理的であったが、実際には両勢力の自律的支配を直撃するものであった。南部評議会は港湾関税と鉱山採掘権を都市防衛と行政サービスの生命線とみなし、アル・ヌディア戦線は油田収入を戦線の戦闘員給与と宗教教育網の維持に不可欠とした。両者の反対は即座に表面化し、中央集約案は閣議で頓挫した。中央銀行は名目上の国家機関でありながら、実際には両勢力の政治的合意がなければ歳入を掌握できない無力な存在となった。
さらにアル・ヌディア戦線は、自らの支配地域においてザカートを名目とする独自徴税を継続した。信仰上の義務として徴収されたこの税は、戦線の統治正統性を補強する一方で、暫定政府の歳入と競合した。結果として、戦線支配地域では中央政府税とザカートの二重課税が横行し、商人と農民は二重の負担を強いられた。物資は闇市場に流れ、現物交換が増加し、貨幣経済は半ば崩壊状態に陥った。新フェリオ・ディナールは、中央銀行の準備資産不足に加え、両勢力が自らの軍事費・行政費を賄うために紙幣を乱発したことにより、発行からわずか一年あまりで急速に信用を失った。為替市場では暴落が続き、パン一斤の価格が週単位で倍増するハイパーインフレーションが発生した。市民は外国通貨や金、さらには石油や穀物そのものを価値保存手段とするようになり、新フェリオ・ディナールは事実上ただの紙切れと化した。
経済の崩壊は政治的不信を増幅させた。ウマルは戦線側の財政協力拒否を国家破壊行為と非難し、ヌハーディは中央集権化こそが内戦再燃の原因だと応酬した。こうした緊張の最中、二〇〇一年三月二十一日、決定的な事件が発生する。アルカイダ系のイスラーム原理主義武装勢力フェリオ殉教者旅団が、南部評議会との停戦交渉および暫定政権樹立を推進したアル・ヌディア戦線穏健派幹部アブー・ハディールと、複数の南部評議会評議員を爆殺したのである。爆発はマルジーン近郊の会議施設で発生し、和平を象徴する人物たちが一挙に失われた。
大統領ウマルはこの事件を、副大統領ヌハーディが戦線内部の過激派を扇動して引き起こしたテロであると断定した。証拠は決定的ではなかったが、ウマルは政治的決断を優先し、ヌハーディを副大統領職から罷免した。この背景には、以前からウマルがアル・ヌディア戦線の弱体化と完全統合を望んでいたという観測が根強く存在した。彼は後任副大統領として南部評議会副議長ヨハーレイを指名し、政権中枢を南部評議会系で固めた。これに対しアル・ヌディア戦線は激怒し、罷免を違憲かつ停戦協定違反と非難した。
事態は軍事的緊張へと急速に転化する。ウマルは暫定首都であり、両組織から中立とされていたマルジーンに対し、アル・ヌディア戦線による陰謀やテロから防衛するという名目の下、南部評議会軍を進駐させ、事実上これを占領した。検問所は南部軍が掌握し、戦線系将校は排除された。中立地帯の理念は崩れ、マルジーンは権力闘争の中心へと変貌した。
これを以て、アル・ヌディア戦線首領ヌハーディは暫定政権からの離脱と敵対を宣言した。彼はウマルの行為をクーデターと断じ、戦線部隊に対しマルジーンへの進軍を命じた。こうしてマルジーンの戦いが始まる。市街戦は数週間に及び、かつて共同政府の庁舎であった建物が砲撃を受け、中央銀行は炎上し、印刷されたばかりの新フェリオ・ディナール紙幣が瓦礫とともに散乱した。統一の象徴は文字通り灰燼に帰した。
この戦いをもって、フェリオ暫定統一自治政府は事実上崩壊した。統一を目指した枠組みは、経済的基盤の脆弱さ、二重軍事体制、過激派の暴力、そして指導者間の権力闘争によって内部から崩れ去ったのである。フェリオは再び分裂と内戦の段階へと回帰し、暫定統一は歴史の一章として、理想と現実の狭間で潰えた試みとして記憶されることとなった。
二〇〇六年二月、南部を基盤とするフェリオ共和国暫定行政庁の大統領ウマルは、ついに自らの政治的経歴を決定づける選択を行った。すなわち、国際連合に対し、フェリオへの本格的な国連軍介入を正式に要請する決定である。マルジーンの戦いから五年、国内は三極化を経て慢性的な低強度紛争状態に陥り、経済は分断されたまま、通貨制度は崩壊し、港湾都市と油田地帯はそれぞれ別個の準国家体制の下にあった。ウマルは、もはや南部単独では国家再建は不可能であると判断したのである。
しかし国連本部では、この要請は単純な「内戦への介入」とはみなされなかった。最大の問題は、フェリオ国内に二つの正統政府を自称する組織が並立しているという事実であった。一方は北東部を支配するフェリオ救国イスラーム評議会、すなわちヌハーディ率いる旧アル・ヌディア戦線系政権である。他方は南部を基盤とするフェリオ共和国暫定行政庁、すなわちウマルおよびヨハーレイらによる継承政府である。いずれも自らを国家の唯一正統な継承主体と主張していた。
国際社会もまた分裂していた。イスラーム系諸国の一部は、イスラーム法に基づく統治と反西側的立場を評価し、フェリオ救国イスラーム評議会を政府として承認した。対して、欧米諸国および民主的統治を標榜する国家群は、暫定行政庁をフェリオの正統政府とみなし、外交関係を維持していた。この二重承認状態は、国連安全保障理事会における議論を極めて困難にした。いずれか一方のみの要請に基づく派兵は、もう一方から「侵略」と断じられ、平和維持活動の正当性を失う可能性があった。
そのため国連は、包括的かつ条件付きの介入案を提示した。第一に、国内で民主的選挙を実施し、その結果選出された政府のみを正統政府と認定すること。第二に、フェリオ救国イスラーム評議会およびフェリオ共和国暫定行政庁は、選挙時点をもって完全に解体されること。第三に、両組織は段階的に武装解除を行い、その過程で国連軍が治安維持活動を代行すること。第四に、フェリオ殉教者旅団およびフェリオ・イスラーム解放機構などのテロ組織に対しては、国連軍が現地軍と協力し掃討作戦を実施すること。第五に、即時停戦を実行すること。第六に、国連軍が活動するための拠点および兵站施設を提供すること。第七に、国連軍は両勢力に対して中立を厳守すること。第八に、マルジーンから両組織の軍を撤退させ、都市を再び完全中立化すること、であった。
ウマルはこれらの条件を受諾した。彼にとっては、主権の一部を一時的に委ねることは、国家再建のためのやむを得ない代償であった。しかし副大統領ヨハーレイは強く反発した。彼は、この案はあまりにも主権侵害的であり、南部が長年築いてきた自治と防衛体制を国際機関に明け渡すものであると批判した。とりわけ武装解除と組織解体条項は、南部評議会系勢力にとって自己否定に等しかった。
一方、フェリオ救国イスラーム評議会は、国連の介入提案を即座に拒否した。声明では「介入は暫定行政庁が一方的に要請したものであり、我々は同意していない。これは外部勢力による新たな占領の試みである」と断じた。ヌハーディは、国連軍の展開は事実上の南部支援であり、中立は偽装に過ぎないと主張した。これにより、国連は中立的活動が困難であると判断し、派兵計画を凍結した。安全保障理事会では常任理事国間の意見も割れ、フェリオ問題は事実上棚上げされた。
この決定は南部政権内部に致命的亀裂を生んだ。ヨハーレイおよびその支持者は、ウマルが国連介入を要請したこと自体が国家主権を軽んじた行為であり、フェリオの独立を損なう背信であると非難した。行政庁内の委員会は緊急会合を開き、ウマルの「統治能力喪失」を理由に事実上の解任を決議した。二〇〇六年五月、ヨハーレイは委員会の推薦を受ける形で大統領に就任し、南部は再び内部クーデターの様相を呈した。
排除されたウマルは、支持基盤の一部が残っていたフェリオ国内のアバン地方へと逃れ、そこで自らが依然として正統政府の大統領であると宣言した。彼は国連や民主国家に対し支援を求め続けたが、国際社会は派兵凍結後、積極的関与を避ける姿勢を強めていた。アバンは南北勢力の境界に近い不安定地帯であり、ウマルの勢力は限定的であった。
そして二〇〇六年八月二十二日、フェリオ・イスラーム解放機構がアバンの臨時拠点を襲撃した。攻撃は夜明け前に行われ、迫撃砲と自爆要員による同時攻撃であった。ウマルはこの襲撃で殺害された。解放機構は声明で「不信仰な妥協政治の象徴を排除した」と発表したが、その背後関係については諸説が飛び交った。南部強硬派の黙認、戦線系勢力の関与、あるいは単独犯行など、確証は得られなかった。
ウマルの死は、フェリオにおける「国際的再統一」という可能性の終焉を象徴した。彼は現実主義的妥協の政治家であったが、その選択は主権侵害と見なされ、国内の支持を失った。ヨハーレイ政権はより強硬な主権重視路線を採り、北東部との対立は再び激化した。一方、ヌハーディ率いるイスラーム評議会は、国連介入阻止を自らの勝利と宣伝し、内部の結束を強めた。
こうして二〇〇六年の一連の出来事は、フェリオを国際管理国家へ移行させる最後の機会を閉ざし、国内紛争をより内向きで過激な段階へと押し戻した。国家主権、宗教的正統性、民主的正当性という三つの理念は、いずれも単独ではフェリオを救えず、相互不信の中で相殺されたのである。フェリオは再び、外部の手が届かぬ多層的紛争空間として二〇〇〇年代後半を迎えることとなった。




