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8. 厄介なラブホの客たち - 1


 あの日から、三沖と俺の間で少しだけ、何かが確実に変わった。


「火消し行ってくる」


「あ、うん」


 三沖の態度は普通だ。あの日の行動を改めて責められることもない。ただ、『筆下ろししてやろうか』という冗談混じりの提案に、俺は首をどちらにも振らなかった。

 否定しなければ肯定したようなものだと、誰かが言っていた。三沖がそう受け取った可能性もあり得るが、あちらからはこの話題に触れてこない。


「おい」


 突然、小窓から男が顔を出した。頬に深く刻まれた皺と白髪頭。かなりの年配だ。心配になるほど頬を真っ赤に染めている。

 一瞬で、俺はこれから怒られるのだと分かった。


「表の看板! キャンペーン終わってんのにあれ変わってないだろ!」


 入り口に立ててあるサイネージのことだろう。あれを変えるには、オーナーから送られてきたデータをスタッフが更新する必要がある。だが、キャンペーンが終わってもなかなかデータが届かないから、いつも一週間くらいはそのまま放置される。


「申し訳ございません」


「ここはいっつもそうだよな?」


「すみません……」


 あれが変わってないことでクレームを言われたのは初めてだった。頭を下げた俺を見て、男は満足したらしい。鼻を鳴らしてから大股で去って行く。

 すれ違いで三沖が戻ってきた。


「ん? なんかあった?」


「サイネージ更新されてないってキレられた」


「あ~なんだ、ただの文句言いたいやつか」


 どかっと椅子に腰を落とした三沖に目が奪われる。後頭部の髪の毛がぴょんぴょん跳ねている。深夜までESを書いたと言っていたから、直して来る時間がなかったのかもしれない。


「寝癖」


 自然とそこに手が伸びた。同じ男なのに、どうしてこいつの髪は柔らかくて触り心地が良いのだろう。


「……なに勝手に触ってんの」


 棘のある言い方の割に、表情は穏やかに見える。飼い主の様子を上目遣いでこっそり伺いながら、無抵抗に撫でられている犬のようだ。


「触られるの嫌?」


「イヤ……ではないけど、ダメ」


「なんで」


「彼氏以外には触らせないって決めた。たった今」


 三沖はそう言って俺の手を振り払った。行き場を失った手が空を彷徨う。


「……彼氏できた?」


「出来てねえよ。あほっ」


「阿呆って、口悪いな」


「てかこの前からウザい。好きな人とか彼氏とか、なんで俺のこと気にしてんの?」


「それは……」


 答えられずに俯くと、盛大な溜め息をつかれた。

 三沖とただ喋るだけの穏やかな時間が好きだった。何も深いことを考えず、だらだら適当なことを喋って笑うだけの時間が。でも今は、すぐにこんな空気になってしまう。肌がひりつくような居心地の悪さなんて、三沖と一緒に居るときに感じたくないのに。

 ──チリチリチリ。

 ベルの音が鳴ったのと同時に、一人の挙動不審な男が入ってきた。全身真っ黒でマスクとグラサンを装着し、おまけに帽子を深く被った男。どう見ても怪しい格好に、俺も三沖も立ち上がってモニターを凝視した。


「なんか怪しくね?」


「キョロキョロしてる。しかも一人」


「こいつさあ……」


 三沖が何かを言いかけて、途中でやめた。だが何を言おうとしたのか俺には分かった。


「出禁客」


「やっぱり!?」


「……似てるよな」


 入社したときから月に一度は訪れ、必ず一人で来て大量の玩具と大便をベッドに撒き散らす厄介な男。さすがに清掃が大変すぎるからと、去年の十月にオーナーが出入り禁止にしたのだ。

 服のせいで顔がほとんど見えず、断定できないのが困った。これでは出禁にした意味がない。

 どうしようかと三沖のほうを振り向いたら、何故かあいつは居なかった。


「え、三沖!?」


 フロントから出て一直線に男の元へ走る後ろ姿に、サアッと血の気が引く。

 確証もないのに行ったらクレームに繋がる可能性もある。それにもし本人だとしても、懲りずに来るぐらいだから逆上されるかもしれない。慌てて俺もフロントから飛び出した。


「あの、出入り禁止にしましたよね」


「は? なんだし」


 二人のところに着く頃には、もう遅かった。三沖が強気な態度で言葉を続ける。


「わかるんですよ。そんだけ変装してても」


「……なんのことだよ。失礼じゃないか?」


「み、三沖」


「あーそうですか。いいですよ、そうやって嘘ついてまで入りたいなら入っても。その代わり、いつもみたいにウンコまみれにしたら弁償してもらいますから。弁償できないなら通報しますし」


 ──驚いた。前から三沖はストレートな性格だと分かっていたが、まさかここまで強く言えるとは。


「なにっ?」


 まったくビビる様子もなく睨みを効かせた三沖に、男は激しく黒目を泳がせた。勝利を確信した彼が両腕を組みながら、「どうします?」と首をひねる。


「はああ、わかったよ……ったく、ケチだなっ」


 男は肩を落としてすごすごと立ち去った。

 拗れなくて良かった。喧嘩になったり暴力を振るわれたりしたらどうしようかと思ったが、杞憂に終わって何よりだ。


「三沖、お前って……」


「やべえ。怖かった」


 目を潤ませた三沖が突然、正面からぎゅっと抱きついてきた。


「……な……、なに」


 さっきの威勢の良さはどこへ行ったんだ?

 頬に当たる柔らかな髪から、シャンプーのいい匂いがする。蜜柑の香水とは違う。甘くて優しい香り。

 思わず空いた手で後頭部を撫でた瞬間、ベリッと音がしそうなほど勢いよく体が離れた。


「触んなって言ったよな。彼氏限定だから」


「あ、ごめん……」


 でも、熱烈に抱きついておいてそれはないだろう。俺が髪に触れなかったら、いつまでああしていたつもりなのか。


「女の子の頭ぽんぽんとか勝手にしたら嫌われるよ?」


 覚えておきな。と言いながら、三沖は先にフロントへ戻った。


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