3. 滑る床
ラブホテルのスタッフはフロントだろうが清掃だろうが、基本的にすぐ辞めてしまう。大体が入って一週間以内に飛ぶ。半年続いたら凄いほうで、俺はかなり続いていると言ってもいい。
「飛間さん……って、ここでどれくらい働いてるんですか」
俺より少し年上に見えるこの男性は先月入ったばかりだ。今日で三回目の出勤。どうせ続かないだろうと思っていたから、名前を忘れてしまった。
「たぶん一年くらいです」
「えー! すごい」
「あ、205号室から出てきましたね。支払いの確認だけこの画面で一応してもらって……これ前に説明しましたっけ?」
あまりにも短期間で色んな人が辞めていってるせいで、いつ誰に何を教えたのかも覚えていない。たしか前回シフトが被った時に教えたような、教えてないような……。
首を捻った俺に、男は自信のない顔で頷いた。
「一応あります。火消しのやり方も教えていただきました」
「そうですか。じゃあ、その部屋お願いします」
「あ、はい……」
一人で不安だ、と言わんばかりの困った顔で見つめられる。俺もできればついて行ってやりたいが、フロントを無人にするわけにはいかない。
「わからないことあったらトランシーバーで連絡してください。使い方わかりますか?」
「それは大丈夫です」
「俺はここに居ますから」
難しい作業は一つもない。ただ火元確認をして、ゴミやリネンを軽くまとめるだけ。今日は清掃にベテランスタッフがいるから、まあ何とかなる。
弱そうな背中を見送った数分後、二階からドンッと大きな音が響いた。すぐにトランシーバーのライトが点灯する。
「ひ、飛間さん……!」
「どうしました?」
今の音は彼が原因だったのかもしれない。ノイズ混じりの泣き出しそうな弱々しい声で、
「転んで……立てません……」
と言われた。予想外の申告に唖然とする。
「た、立てない?」
「はい……すみません、助けてください……腰、やっちゃったみたいで……」
それはそれは申し訳なさそうな言い方だった。もしかしたら腰を打ってしまったのだろうか。
ここを離れるべきではないけど、緊急事態なら仕方ない。新規客が来てないことを確認し、二階まで本気で走った。マスターキーを使って部屋に入る。彼は浴室の床の上でうつ伏せになっていた。
「大丈夫ですか?」
「ゆ、床がヌルヌルしてて、滑ってしまって」
床を触ると、確かに手にねっとりした粘着質なものが付着した。どう見てもこれはローションだ。
「たまにあるんすよ、ローションプレイしてそのまま放置されんの……」
「ローションか! どうりで、うわっ」
プルプルと足を震わせながら何度も体を起こそうとしては滑って体を打ちつけている姿は、まるで産まれたての子鹿。もしくは芸人がテレビ番組で体を張った企画をやっている時のよう。
急に笑いが込み上げてきて、つい口から出そうになった。
「ふっ……」
怪我をしてるのに笑うのはさすがにまずい。咄嗟に手のひらで口元を覆う。幸いにも、彼は起き上がるのに必死で気づかなかった。
「すみません飛間さんっ、手を貸してもらえますか」
「あ、はい。掴まってください」
ぬるついた手が俺の腕を掴む。即座に制服が濡れるのを感じながら、失敗したと思った。タオルで先に拭けば汚れなかったのに。
「……早く降りましょう」
「ほんと申し訳ない」
「いえ。もうすぐ三沖も出勤すると思うので、今日は帰りましょうか」
「そうですね……オーナーにあとで電話します。いててて」
「大丈夫ですか」
思ったより状態が良くないらしく、腰の曲がったお爺さんのように丸まった体は、俺が支えているにも関わらずフラフラしている。彼は今にも泣き出しそうな顔でまた謝った。
彼がタクシーで帰ったあと、入れ替わるように三沖がやって来た。
「あれ、今日って新人いるんじゃないの」
「今ちょうど帰った」
「帰った……?」
三沖は目を丸くして首を傾げた。よく見たら昨日と髪型が違う。センター分けの茶髪だったのが、黒髪のマッシュに変わった。目の上まで切られた前髪のせいでより幼く、柔らかい印象を与えられる。
「髪切ったんだ」
「うん。似合ってるっしょ」
可愛いのは認めざるを得ない。顔がいいからどんな髪型も大抵似合うが、今まで見た中で一番ハマってる。
正直に褒めるのは気恥ずかしかった俺は、ただ無言で頷いた。
「……猫っ毛だよな。三沖の髪は」
「猫っ毛? ってなに」
「猫みたいな柔らかくて細い毛のこと」
「将来ハゲんのかな」
「さあ……それは知らんけど」
柔らかいかな、と言いながら三沖は自分の手で髪を撫でた。耳にかかっていた髪が落ちて頬を隠す。
「ちょっと触って」
「え?」
「髪の毛。意外と柔らかくないよ俺の」
ぐっと頭を近づけられて、咄嗟に顔を引いてしまった。美容院に行ってきたばかりなのかシャワーを浴びてきたのか、石鹸の良い香りが鼻を掠める。
「おい、汚くないって。シャワー浴びてきたし」
「そんなこと思ってない」
ただ距離の近さに驚いただけだ。
目の前にあるのは、天使の輪ができた艶々な髪。触ってみてと言われなくても自然と手が伸びた。
「おお……」
例えるなら猫の尻尾と同じさわり心地。ふわふわで柔らかくて、指からするんと逃げていく。これのどこが“柔らかくない”のか。
「どう」
「柔らかくて気持ちいい」
犬顔なのに髪は猫っぽいなんて、やはり三沖にはモテる要素が詰まっている。
一度触ったら手が離せなくなった。もちもちのビーズクッションみたいに、指が快感を覚えてしまったようだ。
「……飛間」
気まずそうな顔で三沖が俺を見つめた。そのおかげでようやく、ただ髪を触るだけのつもりが過剰に頭を撫で回していたことに気が付いた。慌てて椅子ごと後ろに下がる。
「悪い」
「いや」
ふと思い出した。男性向け雑誌に登場した女性モデルが、好きでもない男に頭をポンポンされるのは嫌だと言っていたことを。
名残惜しい感触を手の中で握りながら、俺はぎこちなくなった空気をなんとかすることにした。
「さっき……新人が帰ったの、なんでかわかる?」
「え、わからん。飛んだ?」
「いや。火消しのときにハプニングがあって」
「なんだろ~……あ、うんこ踏んで嫌になったとか」
「いやあるけど。それじゃない」
「わからんて」
「ローション風呂で転んで腰やっちゃった」
言った途端、ふふっと三沖の口角が上がった。ただ笑うのは失礼だと思ったのか、必死に口を結んで堪えている。
「で、助けて……って言われて助けに行ったら、ツルツル滑ってた」
「ぶっ」
今度こそ大きく吹いた。想像できてしまったらしい。肩を震わせて笑い出す。
「あは、はは……っ」
思い出したらまた面白くなってきた。さっき必死に抑えたせいだ。
二人で爆笑していたら、いきなり店の電話が鳴って空気が変わった。
「オーナーだ」
三沖が電話を取る。
何を言われているのだろうか、こちらが喋ることはほとんどなく、すぐに通話は終わった。
「……さっきの新人、今日で辞めるって」
モニョモニョと笑いを噛み締めながら言われて、今度は俺が吹き出す番だった。
辞める理由は様々あるが、ローションで辞める人は初めて見た。あの体では続けるほうが難しい。早めの判断をしたのは賢明だ。
「てかローション風呂のこと清掃に言った? 今日は長井さんいるよね」
「……やべえ」
ベテランの清掃スタッフ長井さんは、恐らく五十歳を超えていて、キレると怖いおじさん。あの人のせいで辞めたスタッフも何人かいる。
リネンに汚物が付着していたり、ローションで汚れていたり、そういう特殊パターンの時は清掃に入る前に報告しておかないといつも怒られてしまう。しかも、転倒に気を取られていて浴槽の中を確認するのをすっかり忘れていた。
今さら言ったところでもう清掃に入ってるから意味がないかも……とトランシーバーを持ったまま逡巡していたら、背後の扉がパッと開いた。長井さんが隙間から顔を出す。
「どっち? 205の火消し行ったの」
ただでさえ細い目が、俺たちを見た途端さらに細められた。背筋が自然と伸びる。
「あー、き、今日は新人さんが行ってくれました」
「新人か………。じゃあ言っといて、風呂場見る時はローション撒かれてないか確認してって」
「はい」
ため息と共に扉は閉められた。
静寂が訪れたフロントに、退室を知らせる通知音がピピピと虚しく響き渡る。
「……俺行く」
「飛間。お前は転ぶなよ」
やけに真剣な顔で三沖が言ったのが、なんだか可笑しかった。




