15. 初体験の翌朝
ふと背中に肌寒さを感じて目を覚ました。悪趣味な黒い壁と、謎の女体が二人絡み合う謎の絵画。それから、仕事で嫌というほど見慣れた白いベッド。
ナイトテーブルに無造作に捨てられたコンドームの袋が視界に入り、昨日の記憶が一気に蘇った。
怠い体を起こしながら振り返る。俺の童貞を奪った本人は、すやすやと穏やかに眠っている。お互いに全裸だ。恐らく行為のあと、疲れてそのまま寝てしまったのだろう。
──ついに童貞を捨てた。しかも相手は三沖。
最中も今も、ずっと不思議な気分だ。これまでただのバイト先の仲良い人だったこいつと、今では一つのベッドで寝ている。
「はあ」
ため息と共に床に足をつける。歩き出した途端、腰や背中の一部が変に痛むことに気がついた。他人に対して腰を振るとこうなるらしい。
三沖はやっぱり行為に慣れていた。まず部屋で三時間も待っていた俺を適当にあしらい、彼も長めのシャワーを浴びた。そこで挿入されるための準備もしてくれて、俺はただ言われるがままに従った。
なんと言うか、とにかく凄かった。表現のしようがないほど。
感情や本能に突き動かされ、それを丸ごと三沖にぶつけたという事実に、恥ずかしくて今も叫び出してしまいそうだ。
「んー……」
冷蔵庫から水を取り出した時、ベッドのほうから彼が背伸びをする声が聞こえた。顔を合わせる気まずさはあるが、どう考えても三沖の体には負担がかかっている。喉も乾いたはず。
今開けたばかりのペットボトルを持って行くと、半開きの眼と目が合った。
「はよ」
「おはよ。水飲む?」
「お、気が利く」
三沖は水を受け取ってすぐ、寝起きとは思えない勢いで喉を鳴らして飲み始めた。ペコッと凹みながら真ん中あたりまで減ったそれを、笑顔で返される。
「はあ、うまいな」
「その……体は大丈夫?」
「よゆー。慣れてるし」
当たり前のように呟かれた言葉に胸が締め付けられる。分かってはいても言われたくなかった。
俺だけが意識してるだなんて、あまりにも惨めじゃないか?
「まあでも、思ったよりよかったかも。初めてにしては」
三沖が経験したことのある男との比較だ。どんな評価だとしても嬉しくない。
水の残りを一気に飲み干した。そして間接的に触れた口の部分を見ながら、もう三沖とキスすることはできないのだろうかとぼんやり考えた。
「飛間はどうだった? 童貞捨てた感想は?」
「……すごいよかった」
「そんだけかよ」
「いや、まじで。また……」
軽率に図々しい言葉が出そうになり、口を閉じる。
「ん?」
惜しげもなく布団を剥いで体を晒した三沖は、あくびをしながら首を傾げた。お前なんて眼中にない。そう言われているようだった。
「三沖は、好きな人に告ったりしないの」
「ないね」
「即答かよ」
「告ったところで付き合えるわけないし。時間の無駄」
付き合えないと分かっている相手とは一体どんな人なんだろうか。
──彼女がいるとか、同性愛者を嫌ってるとか?
愛流の顔が頭に思い浮かび、ハッとした。三沖の話を聞く限りではああいう男の容姿が好みで、あいつだけ特別扱いしている。しかも愛流は過度な女性好き。
あれが相手なら、告白しても無駄だと最初から諦める理由もなんとなく分かる。
「あ……あのさ」
「あっ! そうだ忘れてた。今日あいつと約束してんだった。いま何時?」
「九時半だけど」
「やべえ」
腰を押さえながら洗面所に向かった彼の後ろをついていく。
こんな朝っぱらから誰と会うんだ?
俺は口に突っ込んだ歯ブラシを揺らしながら三沖を見つめた。よほど時間がないのか、機敏な動きで顔を洗ったり着替えたりしている。
支度と言っても三沖は顔が整ってるし、髪もちょっと水で濡らすだけで何とかなる。大して時間はかからないだろうと思っていたら、鞄から長方形の薄い袋を取り出し、鏡の前でフェイスパックを貼り始めた。
「なに、それ」
「パック。知らんの?」
唇以外のパーツが真っ白に覆われた顔はなんだか少し面白い。三沖は手のひらをゆっくりと頬に押し当てた。
「知ってる。朝やるんだと思って」
「朝晩やってんだよ。冬は特に乾燥するし」
「へえ……」
フェイスパックは女性がやるものだと思い込んでいたが、こいつみたいに美意識が高い人にとっては当たり前のスキンケアなのかもしれない。
「あ、てか三沖も来る?」
「え? 誰と会うの」
「愛流。なんかスクリーム? ってブランドの発売イベントで、一人一個しか買えないから付き合えって言われてんだよね」
ドッと心臓が嫌な跳ね方をした。さっきまで考えていた名前が出てきたせいだ。
「……優しいな。それに付き合うの」
「まー、イケメンの友達を紹介してやるって言われたからな」
愛流の友達とかレベル高そうじゃん?
三沖はそう言いながらパックを剥がした。さっきまで少し浮腫んでいた顔が、わずかながらスッキリしている気がする。
「紹介ね……」
俺は洗面台に置いてあるジェルで髪を整えながら、こっそりため息を落とした。
もし好きな人が愛流だとしたら、紹介してもらうことを喜ぶだろうか。それとも三沖は完全に諦めた上で、新しい人との出会いを探しているのか。
どちらにせよ俺には可能性がないと改めて言われたような気分だった。
「どうする。行く?」
「うん」
もちろん即答した。今はチャンスがなくても、何かが起きて俺のことを好きになるかもしれない。相手が愛流にしろ同じことが言える。
「じゃあ俺、先にここ出とくわ。二人で入ってたのバレたら気まずいし」
「わかった」
「あ、そういやホテル代どうする? 割り勘?」
「ああ……、もちろん俺が出すよ」
「まじ? ラッキー」
ヘラヘラと調子良さそうに笑った彼は、支度を終えて部屋を出ていった。一人になった途端やけに虚しさを感じるのは何故だろう。
童貞を捨て、気持ちいいことをした翌日だというのに、不思議なほど気持ちは重い。
「どんくらい時間潰せばいいんだろ」
スマホを弄りながらベッドに寝転ぶ。ふわっと蜜柑の匂いが舞った。お互いに香水は持ってきていないはずだが、どこから香りが移ったのか。
さっきまで三沖が使っていた枕を抱き寄せ、俺はそこに顔を埋めた。息を吸っても匂いはあまり感じられない。
目を閉じると、昨夜の光景が生々しく瞼の裏に再生される。手には肌の感触が、耳には悩ましい声が残っている。しばらく忘れるのは難しそうだ。
「まじで……、むり……」
三沖と性行為をした。ただ気持ちいいだけならよかったのに、明確に彼に対する好意を自覚する羽目になった。もう誤魔化しようがない。どうせ意味がないのだから、好きだと認めてしまったほうが楽になる。
就活の真っ只中、そして来年の春にはバイトも終わり、三沖と会えなくなる。こんなところで、こんな時期に新しい扉を開いたのはまずかった。
──これからしばらく、三沖に似た人を探しながら生きていくことになるのだろうか。




