11. 内なる嫉妬 - 1
体に突き刺さるような寒さを感じて起きると、窓の外が白かった。そよそよと雪が降っている。湿った雪だ。家の前の道路をビチャビチャと音を立てて車が通っていく。
バイトの日に限って雪が降るとは、なんともタイミングが悪い。
食い終わったカップ麺を台所の流しに置き、ざっと歯を磨いた。指先を濡らして髪を適当に整えてワックスをつける。いつもならこれでバイトに行く準備は終わる。が、三沖と同じ香水を買ってからというもの、シュッと空中に香水を吹き掛けて潜る面倒な工程が増えた。つけろとあいつに言われたわけじゃない。香水は日々酸化していくらしいから、ただ勿体無いと思ってやってるだけ。特別な意味は、たぶんない。
ブーツを履いて足踏みしながら待つこと二十分。舌打ちしながら乗り込んだバスの車内でメールボックスを開く。企業説明会の案内や、インターンの詳細、ESの書き方講座。どれも就活に関連するメールばかりだ。ほとんど毎日ESを書いては、面接の準備をする。現段階でいくつも説明会に行ったのに、やりたいことが見つけられず、心のどこかでずっと焦燥感を抱えている。
三沖も同じような状況のようで、会うたびに「もうES書きたくない」とか、「説明会行くの怠い」といった話題が出る。改めて同い年で良かったと思った。
あくびを噛み締めながらフロントの扉を開けると、何故かオーナーが椅子に座っていた。相変わらず目の下に隈がある。疲れた中年のおじさん。この人に会うたび、社会人になったら自分もこうなるのだろうかと不安に駆られる。
「あ、お疲れさまです……」
頭を下げてから出勤の打刻を押す。
「飛間くん久々だね。元気だった?」
「まあ、はい」
(滅多に来ないオーナーがなんでここに……?)
首を捻りつつ椅子に腰を下ろす。
「いやあ聞いてよ。先週、人いないから清掃で入ったら背中やっちゃってさあ。腰じゃなくて背中だよ? この年齢になると痛めるとこ背中だからね」
「そうなんですね」
「飛間くんまだ若いからいいよね。でもあと三年くらいしたら一気に来るよ。僕も二十五くらいで病気してるから」
「はい。気をつけます」
この人は、俺がどんなに薄い反応をしようが構わない。ろくに返事をしなくても、自分が言いたいことを言ったら満足して話が終わる。
正直どうでもいい話に愛想よく対応できるほど、俺は優しい人間じゃない。
「あ、でね。今日これから新しいバイトさんが来るんだ。また飛間くんに教えてもらいたいなって」
「……またですか?」
先々週あたりに入ってきた新人も、たった一週間で辞めてしまった。新しい人が入るたびに教えなきゃいけないこっちの身にもなってほしい。そもそもバイトがバイトに教育するのではなく、オーナーがやってくれよ──と言いたいところだが、多忙でクタクタに依れているこの人を見ると口には出せない。
「ごめんねえ、毎回お願いしちゃって。あ、でも今回は飛間くんにとっても良いと思うよ。飛間くんの一個下で、すんごい可愛い女の子だから」
「はあ……」
教えるのに容姿は関係ないだろうと心の中でため息をついた時、背後の扉が開いた。
「あ、すみません」
「おっ来たね。どうぞ〜」
若い女性が入ってきた。目が合った途端、ペコリと頭を下げられる。
「初めまして、田中里菜です」
「はいよろしくね。このイケメンは飛間くんだから覚えてあげて。フロントの仕事教えてくれるからね」
「よろしくお願いします」
前髪は目の上で揃えられていて、素朴ながらもパーツが整った顔。小柄で痩せ型。まあ、大学によく居るような普通の女性だ。枯れかけのオーナーから見たら特別可愛く見えるのだろう。
ひとりで納得しつつ、挨拶を返した。
「じゃ、僕はそろそろ行かないと。飛間くんよろしくね」
「あ、はい」
本当に俺に全てを丸投げするつもりらしい。呆れてため息も出ない。
オーナーが帰ったあと、気まずい空気に取り囲まれた。人見知りなのにいきなり二人きりはなかなかキツいものがある。
「えっと……、田中さん、ですよね」
「はい!」
「めんどいと思うけどメモ取ってもらえますか? 多分、次はひとりで入るとか普通にあるんで」
「わかりました」
頷いた彼女は、紙ではなくスマホを取り出した。なんとも言えない気持ちになったが、ラブホのバイトなんてそんなものだ。どうせこの人も長くは続かないだろう。いちいち細かいところを気にしていられない。
モニターとパソコンの見方、車番の控え方、それから料金形態や延長時の仕組みを説明しながら実際にやってもらった。ふと時計を見ると三時間も経っていた。そろそろ三沖が出勤する時間だ。
年齢が近いからか、素朴な雰囲気のおかげか、田中さんは話しやすい。でも教えるために喋り続けた苦労と、初対面の相手であるが故に気疲れもした。三沖が出勤したらすぐ休憩に入らせてもらおう。
「田中さんは何時までですか」
「えっと、今日は終電で帰るので十一時までです」
「あ、じゃあ休憩ないんすね。俺は他のスタッフが来たら行きます」
「わかりました。あの……飛間さんって大学生ですか?」
「はい」
「何年ですか?」
「……三年ですけど」
「そうなんですね。私は二年だから、一個下です」
聞いてもない情報をいきなり与えられた俺は、はあ、と気の抜けた返事をした。
同世代だと分かって緊張が解れたのだろうか。彼女は前のめりになって、
「どこ大ですか?」
と聞いてきた。何故そんなことを教える必要があるのだと思いながらも、誤魔化すのも意味がわからないので素直に答える。
「条智大です」
「え、頭いいですね! かっこいい」
さっきまでの大人しかった態度が嘘のように、学部はどこだとかサークルは何をやってるとか、矢継ぎ早に質問を受けた。
ただでさえ疲れているのにこれはキツい。
(早く三沖来いよ……)
適当に相槌を打ちながら時計をチラ見する。あと数分。早ければもうすぐ来る。
面倒だなと内心ため息をついた時、彼女が不意にスマホの画面をこちらに向けた。
「飛間さんの連絡先、教えてもらえますか?」
「あー……」
「シフトのこととかで困るかもしれないので」
田中さんが微笑みながらわずかに顔を傾けた。自分がどうすれば可愛いと思ってもらえるか、知ってる仕草だった。
これはどう考えても私的な理由で聞かれている。というか、好意が透けて見えてしまった。どうしようと考えながらもスマホをポケットから取り出す。
「じゃあ、全体のグルチャに追加しておきますね」
言った途端、彼女はムッと唇を尖らせた。
「もうグルチャ入れてもらってます。飛間さんのSNSのアカウントってありますか? 私の、これなんですけど」
この前のギャルを思い出した。どいつもこいつも、なんですぐに繋がろうとするのか。
たかが数百人のフォロワーしかいないアカウントだ。別に大した投稿はしてないし、教えても問題ないだろうけど……と考えを巡らせていたら、激しい音と共に背後の扉が開いた。
「あっぶね、遅刻するとこだった」
息を切らした三沖が入ってくる。
「おつかれ」
「おつー、あ、新しい人もいんのか」
出勤の打刻をした彼は荷物を置いて振り向いた。田中さんを見た瞬間、表情が固くなる。
「……今なにしてた?」
俺にスマホの画面を向けていた彼女が、慌てて立ち上がった。
「初めまして。田中里菜です」
「あ、どうも。三沖っす」
「三沖。俺もう休憩いっていい?」
「あっ飛間さん……」
もう一度スマホの画面を向けられた。せっかく三沖のおかげで断れそうだったのに。
「……俺、投稿とか全然してないんで意味ないと思いますよ」
「大丈夫です!」
思ったより彼女は食い下がらなかった。ここであからさまに拒否するのも変だ。さっさと教えて休憩に行こう。
「じゃあ、はい。俺のこれです」
QRコードを出した途端、彼女の顔がパアッと輝いた。そんなに喜べるものだろうか。
「飛間。休憩行くんだろ」
「ああ……」
三沖に促され、スマホの画面をそのままに立ち上がる。
「あ、読み取りできました。ありがとうございます! フォロー申請しますね」
「はい。じゃあ休暇、行ってくる」
「いってら」
入れ替わるようにして三沖が椅子に座った。




