10. 『309号室』の幽霊
休憩で入室してから利用時間を超過すると、自動的に延長される仕組みになっている。部屋に電話するホテルもあるらしい。うちのラブホはプレイの邪魔をしないためにそれをやめたとオーナーが言っていた。その代わり、退室時間が近づくとヘッドボードのアラームが鳴る。大きな音ではないから、聞き逃した客がクレームを言いにきたこともあった。
パソコンの画面で各部屋の利用状況を確認する。緑色が正常で、超過した部屋は赤色に光る。そして便利なことに時間まで表示される。
大体は二時間程度すれば退室してくれるが、たまに五時間以上経っても出て来ない時がある。これが厄介だ。ラブホのトラブルとして稀に起こるのは、盗みやドラッグ、殺人等の犯罪行為。俺が入社する前はここでも何度かあったらしい。
「八時間か……」
赤く点灯しているのは309号室、超過時間は八時間。つまり休憩の三時間を加えると、十一時間。こんなに出てこないのは初めての経験だった。
「はよ〜」
「おう」
出勤した三沖に挨拶を返しつつ、視線をパソコンに戻す。
これから電話しなければいけないと思うと気が重い。普通に出てくれたらいいが、そもそも宿泊を選ばず休憩で八時間も延長してる時点で、変な客であることは間違いないからだ。
「どした」
「八時間も延長してる」
「げ」
デカい虫でも見つけたみたいな声を出した彼は、画面を指さして言った。
「この部屋、幽霊出るって噂あるとこじゃん」
「ゆ……幽霊?」
「そうそう。入社したばっかのとき、オーナーに言われたんだよ。変なことが起きやすいけど気にすんなって。他のスタッフに聞いたらみんな知ってた」
「まじか」
その手の話は苦手だ。幽霊だの宇宙人だのポルターガイストだの、現実にあるわけがない。そう思いながらも、どこかで信じてしまう自分がいる。
もし髪を洗っている時に襲われたら……と不安でシャンプーが目に入っても閉じられないし、家の中で物音が聞こえたら恐る恐る確認する。ホラー映画を観たあとは寝るのが怖い。こんなこと恥ずかしくて誰にも言えないが、人によっては俺をビビりだと笑うだろう。
「へ、変なことって例えば?」
三沖は口角を上げながら、わざとらしく低い声を出した。
「鏡に女の幽霊が映る……とか、誰も来てないのに扉がノックされる……とか」
「……ただの噂だろ」
「そう? 岸さんは見たことあるってよ。鏡に映る女の幽霊」
「……俺は火消しで何回も行ってるけど、なんともなかった」
「まあ俺もないけどね」
あっけらかんと言われて拍子抜けする。俺は体験したとか脅されたら、このあとトイレに行けなくなるところだった。
「じゃ、とりま飛間みてきて」
「えっ?」
「八時間も延長はやばいじゃん。見に行かないと」
「あ、さ、先に電話。する」
正直、生存確認なんか行きたくない。幽霊も怖いが、もし中で人が殺されていたら……と想像するだけで悍ましい。
俺は震える手で受話器を取った。深呼吸をしてから309号室のボタンを押す。
プルルルル──、プルルルル──、プルルルル──。
無気質な呼び出し音に怯えながら出るのを待った。しかし繋がる気配は一切感じられない。二十回目のコールが鳴り終わり、通話を切った。思わず舌打ちが出る。
「なんだよ」
「まじでやばいんじゃね?」
他人事のように笑う三沖にもイラッとする。俺の受け持ちでもあるまいし、俺が確認しに行かなければいけないという義務も当然ない。
少し考えて、俺は三沖の腕を掴んで立ち上がった。
「一緒に行こう」
「は?!」
「二人で確認したほうが安全だから。もし犯人が部屋に隠れてたら困る」
「い、いや、でもフロント空けるわけには……」
「じゃあお前が行く?」
「なんでだよ」
さっきの余裕はどこへやら、慌て出した同僚に頬が上がりそうになる。やっぱりこいつも幽霊が怖いのだ。俺のことを怖がらせたくせに、自分であの部屋に行く勇気もない。
思えば、三沖とシフトが被った日は、あの部屋の火消しはいつも俺がやらされていた気がする。一人だけ逃げようだなんてずるい。
「早く」
「……はあ、仕方ねえ……」
できることなら手を繫いで行きたいが、さすがにそれは難しい。怖がりだと自覚しているくせに、まだ羞恥心を捨てきれないでいる。
手こそ繋がないものの、肩が触れるほどくっついたまま三階に上がった。廊下の一番奥、電気が一番弱いところ。薄暗くてジメッと湿度が高い。ここは幽霊の話がなくてもあまり近づきたくない場所だ。
「あ、マスターキー持ってきた?」
「三沖が持ったんじゃないの」
「なんで俺が? 持ってない。てか飛間が持ってきてると思ってた」
「まじか」
「めんど……取り行くからお前はノックしてみて」
「え、俺も行く」
「二人で行くとか効率悪いじゃん」
そう言って、三沖は駆け足で階段を降りて行った。
(こんなところで一人にするなよ……!)
さっき怖い話を聞いたせいだろうか。普段は何ともなかったはずの薄汚い壁も、他の部屋から漏れ出ている喘ぎ声も、なにからなにまで頭が幽霊と結びつけてしまう。
周りを確認しながら309号室の前に立つ。そして耳を扉に押し付けてみた。扉が二枚あるとはいえ、物音すらしない。唾を飲み込んで扉に向かって拳を握る。
トントントン。
その恐怖心を示すかのように、ノックとは思えない小さな音だった。
「き、客室係でございます……」
反応はなかった。安堵の息を吐き、もう一度ノックを試みる。ノックをしても出て来ないという事実を作るために。
「飛間」
背後で三沖の声がした。もう戻って来たのかと振り向いた瞬間、背筋が凍った。
「え……?」
確かに名前を呼ばれたはずなのに──誰もいない。急激に体が、手足の指先が、すうっと冷えていく。
最初は三沖のイタズラかと思った。でもほんの数秒で隠れられる場所など、この廊下にはどこにもない。静まり返った空間に自分だけが取り残されたような感覚に陥った。
フロントに戻りたいのに、足が動かない。縫い付けられたみたいにくっついて、ここから離れることを拒んでいる。
「飛間」
もう一度三沖の声が聞こえた。恐怖のあまり、目をぎゅっと瞑る。前から徐々に足音が近づいてきて、いきなり肩を叩かれた。
「ひっ」
「おい飛間、どした?」
「あ……」
「なにしてんの」
──本物の三沖だ。
幽霊じゃないとわかった途端、強張っていた体から一気に力が抜けた。
「怖くなっちゃった? 顔白いよ」
くすくすと笑われた。だが、揶揄われた恥ずかしさよりも安堵のほうが大きい。
「怖かった……」
「え?」
思わず三沖を抱き締めた。頬に柔らかい髪が当たる。蜜柑の匂いと、密着したところから伝わってくる体温。深いため息が溢れた。
「ひま……? どしたのマジで」
「なんでもない」
「嘘じゃん」
触っていいのは彼氏限定だ、などと怒られるかと思ったが、意外にも三沖は大人しかった。単に呆れられているだけかもしれない。
体を引こうとしたら、何故か腰に腕を回された。グッと距離が近づく。これ以上ないくらいに。
不意打ちの行為に、心臓が速くなった。
「……撫でてもいいよ。撫でたいなら」
小さな声だった。それでもしっかり聞こえた。
今だけは許してくれるということらしい。ゆっくりと手を後頭部に乗せると、いよいよ俺たちは仕事中にこんな場所で何をしているのだろうと思った。もしオーナーが監視カメラをチェックしていたら、確実に怒られる。
「飛間が怖がりなんて知らなかった」
優しい声だった。馬鹿にしているわけではなく、きっと心配してくれている。
「ごめん。でも……これ、落ち着く」
気づけば、恐怖心なんてすっかり忘れていた。頭の中は三沖のことばかりだ。さっきのホラー体験を話せば話題になるというのに、もう話す気にもならない。
しばらくそのまま抱き合ったあと、言うまでもなくお互い体を離した。そろそろ仕事しないとさすがにまずい。
「じゃあ、開けるよ」
マスターキーを握った三沖と目を合わせて頷く。
外扉を開けた彼は声を張り上げた。
「客室係でございます! お客様いらっしゃいますか?」
扉を手が痛くなるほど強く叩いても返事はない。諦めたようにため息をついた三沖が、ついに内扉の鍵にも手をかけた。キイーと錆びた音を立てながら扉が開かれる。自ずと唾を飲み込んだ。
「……客室係です。すみません、失礼します」
自分の声が部屋に響いた。ここまでしても反応がないということは……と嫌な方向に思考が傾く。
部屋に足を踏み入れると、ベッドからはみ出た素足が視界に入った。大量のすね毛に覆われた中年男性のものだ。
「お、お客様」
「失礼します! 入りますね」
怯える俺と反対に、三沖は堂々と中に入った。
「あ」
ベッドに転がっていたのは死体──ではなく、口を半開きにして爆睡するおじさんだった。かーかーといびきをかく姿は何とも間抜けだ。
八時間も延長し、その間ずっと眠っていただなんて、どれほど疲れていたのだろうか。
「お客さんっ、起きてください!」
「う、うーん……」
大胆なことに、三沖は男の足を強く揺さぶった。
「もう八時間も延長されてますけど、大丈夫ですか? なにかありましたか?」
「ええ……?」
男は細く目を開け、俺たちのことを認識した。まだ寝ぼけている彼の耳元で三沖が同じ問いかけを繰り返す。
「あ、もうそんな時間?」
「そうです。大丈夫ですか」
「あかんなあ、寝すぎてもうた……」
ガシガシッと激しく髪を掻いたおじさんは、あかんなあ、あかんなあ、と言いながらおぼつかない足取りで浴室に向かった。
「……戻るか」
「だな」
散々怖がった割に、爆睡していただけというオチ。それでも犯罪に巻き込まれなくてよかった。
結局、だいたいは心霊系のネタも思い込みとか妄想に違いない。さっきのあれも、きっと──。そう思いながら部屋から出ようとした時、扉近くにある全身鏡にふと視線を引き寄せられた。
見た途端、思わずヒュッと息を飲んだ。たった一瞬。鮮明ではないが、鏡に女の顔のようなものが映っていた。
「飛間?」
三沖が心配そうに顔を覗き込んでくる。煙の如くすぐに消えたそれを言うこともできず、震えながら彼の手を掴む。
「か、帰ろ」
「うん。てか、手……」
「ちょっとこうさせて」
お化け屋敷に入るときの子どものように怖がる俺に、三沖は笑いながら手を握り返してくれた。




