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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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赤いキャリーケース 第1話

 これは、僕が高校を卒業した二月の出来事だ。


 僕――高浜亮磨は、高校三年間をほぼサッカーだけに費やしてきた。

 朝練、放課後の自主練、休日の遠征。

 気づけば、友達と遊んだ記憶より、スパイクの匂いのほうが鮮明に思い出せるほどだった。


 大学もスポーツ推薦で合格が決まり、周囲からは「順調だな」「努力が実ったな」と言われた。

 けれど、僕自身は慢心する気になれなかった。

 推薦で入ったからこそ、大学で通用しなければ意味がない。

 仮卒業期間に入ってからも、毎朝のトレーニングとランニングを欠かさず続けていた。


 実家の近くには、舗装された山道がある。

 観光地というほどではないが、地元の人間には知られた散歩コースで、整備は行き届いている。

 道幅は広く、車もほとんど通らない。

 ガードレールの向こうはすぐ崖だが、危険を感じたことはなかった。


 そのときの僕は、まだ知らなかった。

 この山が、「何かを残す場所」だということを。


 二月四日。

 朝の冷たい空気を吸い込みながら、いつものように山道を登っていた。

 吐く息が白く、耳が痛いほどの寒さだったが、走り始めればすぐに体は温まる。


 道は蛇のようにうねり、急カーブが続く。

 その中に一か所だけ、視界が開ける場所がある。

 街と海を一望でき、写真を撮る人が立ち止まることも多い場所だ。

 僕も時々、そこで呼吸を整える。


 そのカーブに差し掛かったとき、僕は人影に気づいた。


 白いワンピースを着た女性が、崖の縁に立っていた。


 季節外れの服装だった。

 二月の山で白いワンピースなんて、寒さを通り越して痛いはずだ。

 なのに、彼女は微動だにせず、細い体を前に傾け、崖の下を覗き込んでいる。


 年齢は二十代後半から三十代半ばくらい。

 肩までの黒髪は風に揺れ、眼鏡の奥の瞳は焦点が合っていないように見えた。


 胸の奥が、嫌な予感で締めつけられた。


 ――飛ぶ気じゃないよな。


 そう思いながらも、見て見ぬふりはできなかった。

 僕は足を止め、声をかけてしまった。


「あの……大丈夫ですか?」


 女性はゆっくり振り返った。

 その動作が、妙に遅い。

 まるで、時間の流れが彼女だけ違うような、そんな違和感。


 困ったように眉を下げた表情は整っていて、正直、美人だと思った。

 だが同時に、言葉にできない違和感があった。

 感情が、薄い。

 表情はあるのに、そこに「温度」がない。


「あの、すみません……実はキャリーケースを落としてしまって、どうにか取ることはできませんか?」


 そう言って、崖の下を指さす。


 視線を追うと、落ち葉が積もった斜面の奥に、真っ赤なキャリーケースがあった。

 自然の色の中で、その赤だけが異様に浮いて見えた。

 新品のように光沢があり、まるで「ここにいます」と主張しているようだった。


 自殺ではなかった。

 それだけで、心からほっとした。


「すみません、この高さじゃ……降りるのは無理だと思います」


 正直な答えだった。

 階段もロープもない。

 下手に降りれば命に関わる。


「そうですよね……」


 彼女は俯いた。

 その瞬間、風が止み、山全体が静まり返ったような気がした。

 鳥の声も、木々のざわめきも消えた。

 僕の呼吸音だけが、やけに大きく響く。


「あの、この先に管理事務所があります。そこに行けば、たぶん対応してもらえますよ」


「そうなのですね。ありがとうございます。一度行ってみます」


 深く頭を下げる彼女を背に、僕は走り去った。


 走りながら、ふと疑問が浮かんだ。


 なぜ、この時間、この場所で、キャリーケースを引いていたのか。

 山頂の宿泊施設は、朝から受付をしていないはずなのに。

 そもそも、観光客がキャリーケースを持って山道を歩くだろうか。


 ――まあ、大人の事情だろう。


 そう思うことにして、その日は何事もなく終わった。


 だが、その「何事もなさ」が、翌日から崩れ始める。

 次の日。


 二月五日。

 昨日と同じ時間、同じ山道。

 空気は昨日より冷たく、風が強い。

 木々がざわざわと揺れ、落ち葉が舞っていた。


 走りながら、僕は昨日の女性のことを思い出していた。

 管理事務所に行ったのだろうか。

 キャリーケースは回収されたのだろうか。

 あの赤い色は、今も斜面の奥で浮いているのだろうか。


 そんなことを考えながら、例のカーブに差し掛かった。


 そこで、僕は足を止めた。


 昨日と同じ白いワンピースの女性が、同じ場所に立っていた。


 風の強さも、空気の匂いも、昨日とは違う。

 なのに、彼女だけが昨日のままだった。

 髪の揺れ方まで、まるでコピーしたように同じだった。


 胸が、嫌な音を立てた。


 今日は話しかけるつもりはなかった。

 助言はした。

 できることはない。

 関わらないほうがいい。


 そう思い、そのまま通り過ぎようとした瞬間――


 背後から声がかかった。


「あの、すみません。実はキャリーケースを落としてしまって、どうにか取ることはできませんか?」


 昨日と、一言一句違わない。


 僕は反射的に振り返った。

 彼女は昨日と同じ姿勢で、同じ表情で、同じ角度で僕を見ていた。


 心臓が跳ねた。

 寒さとは違う震えが背中を走る。


 思わずスマホを取り出し、日付を確認する。

 二月五日。

 間違いなく、今日は昨日ではない。


「……昨日も言いましたよね。この先に事務所があります。そこに行ってください」


 声が震えた。

 自分でも驚くほど弱々しい声だった。


「そうですよね……」


 彼女は俯いた。

 昨日と同じタイミングで、同じ角度で。


「じゃ、僕は行くので」


「そうなのですね。ありがとうございます。一度行ってみます」


 背中に冷たい汗が流れた。

 まるで録音された音声を再生しているようだった。

 彼女の声には抑揚がなく、感情の揺れもない。

 ただ、決められた台詞を読み上げているだけのようだった。


 その日から、彼女は毎日いた。


 二月六日。

 二月七日。

 二月八日。


 同じ場所、同じ服、同じ言葉。

 天気が晴れでも、雨でも、風が強くても、彼女は変わらなかった。


 僕は次第に、山道に近づくことすら怖くなった。

 走る前から胃が痛くなり、足が重くなる。

 それでも、習慣を崩したくなくて、僕は山に向かった。


 だが、彼女は必ずいた。


 ある日は、僕が遠くから見ているだけなのに、

 彼女はゆっくりと首だけをこちらに向けた。


 まるで、僕が来るのを知っていたかのように。


 その瞬間、全身の毛穴が開くような感覚がした。

 逃げ出したいのに、足が動かない。

 視線を逸らすこともできない。


 彼女は、微笑んだ。


 ほんのわずか。

 けれど、その笑みは「助けを求める人間」のものではなかった。

 もっと別の、言葉にできない何かだった。


 その夜、僕は夢を見た。


 夢の中で、僕は山道を走っていた。

 霧が濃く、視界が白い。

 足音だけが響く。


 カーブに差し掛かった瞬間、背後から腕を掴まれた。


 振り返ると、白いワンピースの女性がいた。

 顔が近い。

 息がかかるほど近い。


「あの、すみません……」


 同じ台詞を何度も、何度も聞かされる。

 耳元で、囁くように。

 繰り返し、繰り返し。


 逃げようとしても逃げられない。

 腕を掴む手が、氷のように冷たい。

 皮膚の下まで染み込むような冷たさだった。


 目が覚めたとき、腕に残る感覚が、生々しく残っていた。

 まるで、本当に掴まれていたかのように。


 僕はその日、山に行くのをやめた。

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