足音の道
僕が毎日使っている通学路は、住宅街の裏にある細い一本道だ。昼間は子どもの笑い声や犬の鳴き声が聞こえる、ごく普通の道。だが夕方を過ぎると、街灯の間隔がやけに広く感じられ、影だけが不自然に長く伸びる。
ここ最近、決まって帰り道だけ、背後から足音がついてくるようになった。
コツ、コツ、という軽い音じゃない。
ズシッ……ズシッ……と、地面を踏み潰すような、妙に重たい足音だ。
最初は気のせいだと思った。近くを歩いている誰かの音が、建物の壁やアスファルトに反響しているだけだと、自分に言い聞かせた。そう思い込まなければ、あの道を通れなくなるから。
幸い、足音は長く続くわけじゃない。自転車を全力で漕げば、数秒で気配は遠のく。それを繰り返すうちに、背後の足音にも慣れていった。
――いや、“慣れた”というより、“麻痺していた”だけなのかもしれない。
ある日、塾で居眠りをしてしまい、帰りが遅くなった。時計はすでに22時を回っている。高校生が一人で歩くには、正直危ない時間帯だ。
遠回りをすれば人通りの多い道を通れる。頭では分かっていた。
それでも僕は、歩道橋も信号も少ない最短距離の**“あの道”**を選んでしまった。
遅い時間に通るのは初めてだったが、今まで何も起きなかったんだ。今回も大丈夫だろう――そんな甘い考えが、判断を鈍らせた。
結果だけで言えば、僕は自分の油断を、後になって心底後悔することになる。
その夜に限って、背後の足音はまったく聞こえなかったからだ。
いつもなら、数十メートル進んだところで必ず感じる、あの重たい気配。それが完全に消えていた。
振り返っても、道の奥は闇に沈み、誰の姿もない。
――変だ。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
そのまま帰宅し、風呂に入り、布団に入った。
眠りにつくと、人生で初めて金縛りにあった。
噂で聞くような、生あくび一つで解ける軽いものじゃない。声も出ず、指一本すら動かない。無理に腕を動かそうとすると、骨と皮膚が引き剥がされそうな感覚が走り、諦めるしかなかった。
なのに、目と首だけは意思とは関係なく動き、瞼も閉じられない。
そして、それは唐突に現れた。
ズシッ……
ズシッ……。
家鳴りとは比べものにならない。床を踏み締める、人間の質量を持った**“何か”**の足音。しかも、その音は確実に、廊下を通って僕の部屋へ近づいてくる。
扉の前で一度、音が止まった。
息をひそめたかのような、重たい静寂が落ちる。
去ったのか――そう思った、その瞬間。
扉をすり抜けるように、“足”だけが、スッと部屋に入ってきた。
膝から上は完全に欠け、靴だけを履いた足が二本。
上下が断ち切られているのに、歩き方だけは異様なほど自然だった。
これは夢だ。夢だ。夢だ……。
必死にそう唱えながら、強く目を閉じた。
次に気がついた時には、朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
夢だと言い聞かせたかった。
だが、あの時の意識の冴えは、夢にしてはあまりにも鮮明すぎた。
その日の夜、また少し遅い時間に、あの道を通った。
足音は、やはり聞こえない。
代わりに、自転車が異様に重く感じた。ペダルを踏み込むたび、空気が粘つくような感覚がある。
疲れているだけだと、自分に言い聞かせた。
だが――その夜も、再び金縛りに襲われた。
ズシッ……ズシッ……。
昨日と同じ足音が廊下から近づき、部屋に入ってくる。
足だけの存在は、今度は部屋の中をしつこく徘徊し、やがて僕の頭の上で立ち止まった。
もしも上半身があったなら、確実に僕を覗き込んでいただろう。
恐怖で震えながら目を閉じ、なんとか朝を迎えた。
二日連続の金縛りで、授業中の集中力はゼロ。精神も限界だった。
僕は通学路を変えた。遠回りでもいい。とにかく、あの道はもう通れなかった。
一ヶ月ほど続けると、金縛りはぴたりと消え、日常は元に戻った。
恐怖心も薄れ、「もう大丈夫なんじゃないか」という考えが頭をよぎったが、すぐに首を振って打ち消した。
――二度と、あんな思いはしたくない。
♢♢♢
ところがその日も、塾で居眠りをしてしまい、帰りが遅くなった。
遠回りで帰れば22時半を過ぎる。リスクを考え、僕は再び、あの道へ向かってしまった。
自転車を全力で漕ぐ。
何も聞こえない。足音も、あの気配すら。
だが、その夜、また金縛りがやってきた。
廊下の足音が近づく。
スーッと扉を越えて現れたのは、今度は足だけではなかった。
白く、透けるような全身の姿をした女性。
輪郭は曖昧なのに、顔の造りだけが異様なほどはっきりしている。
彼女は僕の枕元に座り、耳が触れそうな距離で囁いた。
「どうしてこないの……」
息がかかるほど近い距離で、何度も。何度も。
狂ったように繰り返しながら、ついには僕の身体に跨り、顔を押し付けるようにして叫んだ。
「なぜ来ない! なぜ来ないの!」
声は耳の奥に直接流し込まれるように響き、頭蓋骨の内側を震わせた。
恐ろしくて、逃げたくて、でも声は出せない。
気づけば女性は消え、金縛りも解けていた。
窓の外には朝日が昇り、全身は汗で濡れていた。
その日から、足音も金縛りも、嘘のように止んだ。
医学的にはレム睡眠や幻覚で説明できるらしい。幽霊なんて存在しない――そう言われれば、そう思い込むしかなかった。
日曜日に遊ぶ予定を立てながら、僕は少しだけ楽になっていた。
しかし、その二日後。
また塾帰りが遅くなり、あの道を通ることになった。
遠くに白い人影が立っているのが見えた瞬間、胸が凍りついた。
全力で逃げようとした、その瞬間。
自転車の荷台を、後ろからガシッと掴まれた。
時速15キロ近く出ていたはずの自転車は、ぴたりと止まった。
ありえない。素手で掴める速度じゃない。
振り向くと、あの女性がそこにいた。
どんなに漕いでも進まないどころか、彼女は簡単に自転車を倒し、僕も地面に叩きつけられた。足首を掴まれ、そのまま引き摺られていく。
道の奥には、誰も訪れなくなった墓地がある。苔に覆われ、忘れ去られた場所だ。
「やめろ! 離せ! 誰か助けて!」
叫んでも、周囲の家は真っ暗で、誰も出てこない。
国道もあるのに、車一台走っていない。
世界に、僕一人しかいないみたいだった。
墓地の前で、女性は立ち止まった。
逃げようとした僕の身体は、力が抜け、指一本動かせない。
意識が暗闇に沈んでいった。
――次に目覚めた時、僕は自分のベッドにいた。
昨夜の出来事は何だったのか。どうやって帰ってきたのか。記憶はない。
ただ一つだけ、確実なことがある。
あの女性は、幻覚なんかじゃない。
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