旧童楽寺トンネル 第5話
闇は濃く、空はまだ夜のまま。
時間だけが、やけに速く過ぎていく。
スマホの充電が切れたのは、五時五分だった。
何度同じ道を降りたのか、もうわからなかった。
体力も、精神も、そろそろ限界に近い。
山を下り始めて一時間以上経っているはずなのに、景色は変わらない。
空はまだ夜のまま。
本来なら東の空が白み始めてもいい頃なのに、闇は濃くなるばかりだった。
(……おかしい。絶対におかしい)
足は重く、膝は笑い、呼吸はもう呼吸の形をしていなかった。
桂も同じで、さっきまで軽かった足取りが、今は泥を踏むように鈍い。
スマホを見る回数が増え、時間だけが無情に進んでいく。
そして──
画面がふっと暗くなった。
「桂……悪い。スマホの充電、切れた」
声が震えていた。
暗闇に飲まれる恐怖が、喉の奥を掴んでいた。
桂はスマホを確認し、眉をひそめた。
「僕のも……あと十八パーセントしかない」
「初めからどっちかのスマホだけ使えばよかったな……」
後悔しても遅い。
もっと冷静に判断していれば、こんな状況にはならなかったかもしれない。
「まあ……最悪、頼りないけどミニライトなら持ってる。なんとかはなるよ」
桂はそう言ったが、その声は弱々しく、頼りなさが余計に際立った。
「こんなことになるなんて思ってなかったから……ライトくらい持ってくればよかった」
「仕方ないよ。春人だって、こんなことになるとは思ってなかっただろうし」
桂は空を見上げながら続けた。
「須賀野さんに言うのもなんだけど……これが終わったら朝まで遊ぼうって言われてたんだよ。もう朝になりそうだけど」
「だったら……なんでトンネルの中を探そうとか言ったんだよ」
言うつもりじゃなかった。
疲れで、心の中の言葉がそのまま口に出てしまった。
桂は苦笑した。
その横顔は、どこか虚ろだった。
「なんでだろうね……あの時の春人は、おかしかったから。僕にもわからないよ」
「……飯口で困ってるなら、友達やめれば?」
あんな男、いなくても困らないだろう。
むしろ、いない方がいい。
桂は少しだけ目を細め、静かに言った。
「それは……お互い様じゃないかな」
「私は違う」
即座に否定したが、桂は相変わらず苦笑いを浮かべていた。
寧音との関係を言いたいのだろう。
でも、私は寧音に依存しているわけじゃない。
ただ──守りたいだけだ。
桂は、私の視線に気づかないまま、ズケズケと質問を続けた。
「女子って……人付き合い、大変じゃないの?」
「さあ。私はその辺の女子とは距離置いてるから。寧音とは楽しくやってるけど」
「そっか……須賀野さんは高校の時から変わらないんだね。僕にはその強さがないから、流されてばかりだよ」
「別にそれでもいいんじゃない? 誰かを頼って生きるのは普通だし。全員を受け入れる必要はないってだけ」
私は淡々と言った。
疲れているせいか、言葉が素直に出てくる。
「友達は多い方がいいって言うけど、多すぎたら誰が誰だかわからなくなるだろ。忘れるくらいの相手なら、関わる意味ないし」
「……はは。そうかもね」
(……なんで笑うんだよ)
人が真剣に話してるのに、こいつは本当に失礼だ。
「でも……ありがとう。友人の取捨選択なんて考えたことなかったから。少し参考になったよ」
「“少し”か……」
「あ、いや……ごめん。言葉のあやで……参考になったよ」
「今更言い直してもな」
「本当にごめん……そんなつもりじゃなかったんだ」
「いいよ。私の言葉なんて、参考にならないってわかってるし」
気づけば、私たちは走るのをやめていた。
歩きながら、会話を続けていた。
幽霊のことなんて忘れてしまいそうなほど、静かな時間だった。
だからだろう。
この先に待っている“異常”を、すんなり受け入れてしまったのは。
桂と並んで、ゆっくりと坂道を下っていた。
疲労で足は棒のようになり、思考は霞がかったように鈍い。
それでも、前方に差し込む光を見た瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
(……人だ。誰かいる)
光は揺れ、何かの影が動いている。
私も桂も、思わず顔を見合わせた。
「やっと……助かった……」
そんな言葉が喉まで出かかった。
だが──曲がり角を抜けた瞬間、私は息を呑んだ。
そこにあったのは、飯口の車だった。
鍵をなくしたはずの、あの黒い軽自動車。
その中で、飯口が運転席に座り、寧音が助手席でこちらに手を振っていた。
「春人だ。なんだ、先に降りて待っててくれたんだ」
桂が嬉しそうに言う。
「待て桂」
私は腕を掴んだ。
「私たち……車に追い抜かれたりしてないよね?」
「え? してないけど……」
「じゃあ、なんで飯口が車に乗ってるの?」
桂はぽかんとした顔で私を見る。
「話を聞けばわかるだろ。ほら、行こうよ」
「罠の可能性だってあるだろ。落ち着けって」
「罠? 誰がそんなことするんだよ」
「幽霊に決まってるだろ!」
声が震えた。
疲労と恐怖で、思考がまともに働かない。
でも、直感だけははっきりしていた。
──これはおかしい。
桂は私の言葉を聞く耳を持たず、ずんずん車へ向かっていく。
私は引っ張られる形で、仕方なくついていった。
近づくにつれ、寧音の顔がはっきり見える。
いつもの優しい笑顔。
いつもの声。
「光莉、大丈夫? 顔色悪いよ?」
その声を聞いた瞬間、胸が痛くなった。
寧音は、根が優しい子だ。
人に流されやすくて、頷くことしか知らないけど、誰よりも友達思い。
──だからこそ、怖い。
「光莉。早く乗りなよ」
寧音の声は、いつも通りだった。
その“いつも通り”が、逆に不自然だった。
桂は何の疑いもなく後部座席に乗り込んだ。
私も寧音に促され、仕方なく乗る。
寧音の後ろの席。
行きと同じ位置。
「光莉、大丈夫? 本当に顔色悪いよ」
「……大丈夫。少し休めばマシになる」
「じゃあ、着くまで寝てていいよ。起こしてあげるから」
「ありがとう……」
眠気は限界だった。
桂の隣で寝るのは不本意だけど、そんなことを気にしていられる状態じゃない。
寧音の声が遠のいていく。
車の揺れが、まるで子守唄みたいに意識を沈めていく。
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