旧童楽寺トンネル 第1話
これは、私が大学三年生の夏に体験した、忘れたくても忘れられない夜の話だ。
須賀野光莉。
平凡な名前に似合わず、私は昔から妙に勘が鋭いと言われることがある。
けれど、この夜ばかりは、その勘が何ひとつ役に立たなかった。
あの日、私を心霊スポットへ誘ったのは、大学で再会した中学時代の友人──磐岬寧音だった。
彼女の明るさと強引さに押されて、私は“息抜き”と称した肝試しに参加することになった。
今思えば、あのとき断っていればよかった。
あの夜のことを思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。
♢♢♢
八月九日、金曜日。
夏休みの真ん中で、空気は湿り気を帯び、夜になっても熱が逃げない。
寧音から「明後日の十一日に決行ね」とメッセージが届いたのは、その日の夕方だった。
集合場所は近くのショッピングセンター。
時間は二十三時三十分。
そこから心霊スポットまでは、寧音の友人であり、私のサークル仲間でもある飯口春人が車を出してくれるという。
──正直、ありがたかった。
免許を取ったばかりの私は、夜の山道を運転する自信なんてなかったから。
♢♢♢
当日の昼間。
私は寧音に「持っていくもの、何かある?」と訊いた。
すると彼女は、あっけらかんと笑って言った。
「スマホさえあれば大丈夫だよ」
その言葉を信じて、私はお菓子と飲み物だけをバッグに詰め、あとはのんびりと過ごしていた。
──後になって思い知る。
たとえ友人の言葉でも、鵜呑みにしてはいけないことがあるのだと。
♢♢♢
二十三時三十分。
私は約束の時間ぴったりにショッピングセンターへ着いた。
夜風は生ぬるく、駐車場の照明がアスファルトを白く照らしている。
しかし、そこには誰もいなかった。
寧音は時間にルーズだ。
十分遅れるなんて日常茶飯事。
だから私は、彼女に合わせて“早く着かないように”している。
待ち時間は退屈だ。
スマホでくだらないゲームを開く。
試験管の中の色水を揃えるだけの単純なゲーム。
でも、こういうときにはちょうどいい。
気づけば二十三時三十五分。
そのとき、闇に溶けるような黒い軽自動車が駐車場に入ってきた。
広い駐車場なのに、わざわざ私の隣に停まる。
──飯口の車だ。
助手席から寧音が降りてきて、私の窓をコンコンと叩いた。
私はスマホを充電ケーブルから抜き、エンジンを切って外に出る。
「お待たせ、光莉」
「今日は早かったね」
「“今日は”って……私、そんなに遅刻魔?」
「え? 自覚してないの?」
「……みんなに言われるから、してますよ」
「してるならいいけど。それより行こう」
寧音が助手席に座るということは、私は必然的に後部座席だ。
一人で落ち着けるから、それはそれでいい。
そう思って後部座席のドアを開けた瞬間──
私は反射的にドアを閉めた。
そこに、見たくなかった顔があったからだ。
寧音が窓を下ろして言う。
「光莉? どうしたの?」
「寧音……三人じゃなかったの?」
「あ、ごめん。言い忘れてた。人数多い方が楽しいかなって。桂君、光莉と同じ高校だったんでしょ?」
最悪だ。
よりにもよって、なんでこいつなんだ。
「よりにもよってなんで……」
「春人と仲いいんだって」
知ってるよ。
サークルでよく一緒にいるの見てたよ。
でも、こいつだけは違うんだよ。
寧音が心配そうに言う。
「光莉……やっぱりやめる?」
私は深く息を吸った。
嫌だけど、寧音を一人にするわけにはいかない。
「行くよ。寧音を一人にはできないから」
そう言って、私は不本意ながら後部座席に乗り込んだ。
♢♢♢
車内は、前と後ろで温度が違った。
前の二人は楽しげに話している。
後ろの私は、隣の桂を無視して窓の外の暗い景色を眺めていた。
桂が話しかけてくる。
「須賀野さん、よろしくね」
聞こえないふりをした。
こいつ、本当に苦手だ。
車は山道に入り、街灯が消え、闇が濃くなる。
ライトの届く範囲だけが世界のすべてになった。
そして──旧童楽寺トンネルの手前に着いた。
ここから先は車で進めない。
徒歩で向かうのが“定石”らしい。
飯口が言う。
「よし、順番決めようぜ。シングルとダブル、どっちにする?」
意味がわからない。
でも寧音が「ダブルがいい」と言ったので、私はそれに合わせた。
そして、ペアが決まる。
寧音は飯口と。
私は──桂と。
最悪だ。
でも、寧音のためなら仕方ない。
♢♢♢
飯口と寧音が先に行き、私と桂は車の前で待つことになった。
夜の山は静かだった。
虫の声すら遠く、風もない。
ただ、暗闇だけが濃く、重く、まとわりつく。
桂が言う。
「暇だね」
無視した。
「須賀野さんって、俺のこと嫌い?」
よくわかってるじゃないか。
でも、話す気はない。
「幽霊とか怖くない?」
しつこい。
本当にしつこい。
私はついに言った。
「お前うるさい。無駄話はしたくないから黙ってて」
桂は黙った。
けれど、少しして、ぽつりと言った。
「……やっぱり、嫌われてるんだね」
「当たり前だろ。あんなことがあったんだから」
「……まだ言われるんだな、それ」
「未来永劫言われるだろ。あれは人として最低だ」
桂は苦笑した。
その顔が、妙に薄暗いライトに照らされて、不気味に見えた。
「須賀野さん、多分勘違いしてるよ」
「は?」
その瞬間、飯口と寧音が戻ってきた。
いちゃつきながら。
私は桂の言葉の続きを聞きたかった。
でも、次は私たちの番だった。
そして──あの夜は、ここから地獄に落ちていく。
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