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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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拾い物 最終話

 歩道橋の上、財布はそのまま残されていた。

 白い空は、もう完全な白ではない。ところどころに薄い灰色が滲み、まるで汚れた紙のようにムラがある。世界そのものが、どこか“疲れている”。


 コン。


 財布の中で、太陽は叩いた。前より軽い。圧が弱い。

 それだけじゃない。周囲の“層”が、少しだけ離れているのがわかる。押し込められていた無数の意識に、隙間ができている。


 コン。


 応えるように、別の音が返る。


 コン。


 また一つ。


 コン。


 数は多くない。だが、確実にある。


「……まだ、いるか」


 太陽は思う。返事の代わりに、音が重なる。


 コン、コン。


 それだけで十分だった。


 ——繋がっている。


 そのとき、足音がした。今度のそれは、迷いがなかった。一定の速度で近づき、財布の前で止まる。だが、その人物はすぐには動かなかった。しばらく、見下ろしている。


 そして——


「これ、か」


 低い声。男でも女でもないような、平坦な響き。次の瞬間、財布が持ち上げられた。太陽は身構える。だが、違う。開かれない。振られるでもない。ただ、じっと握られている。


「……やっぱりな」


 その人物は、小さく呟いた。そして、意外なことを言った。


「聞こえてるぞ」


 太陽の思考が止まる。


 コン。


 反射的に叩く。すると——


「それ、それ」


 即座に返ってきた。


「内側から叩いてるやつ、いるんだろ」


 太陽は初めて、“外と繋がった”と理解する。完全ではない。だが、確かに届いている。


「なるほどな……」


 その人物は、ゆっくりと息を吐く。


「厄介な仕組みだ」


 そして——財布を、地面に置いた。太陽は混乱する。なぜ拾ったのに、使わない?その人物はポケットから何かを取り出した。


 ライター。


 カチ、と音がする。小さな火が灯る。太陽の意識が、ざわつく。


「やめろ」


 女の声が、すぐそばで響いた。現れる。今度は、明確な敵意を持って。


「それはだめ」


 低く、はっきりとした拒絶。だが、その人物は振り向かない。ただ、財布を見ている。


「中にいるやつ」


 静かに言う。


「聞け」


 コン。

 太陽が叩く。


「今から、これを“壊す”」


 その言葉に、内側の空間がざわめく。他の“層”たちも、反応する。ざわざわと、意思が揺れる。


「ただし」


 続ける。


「多分、無事じゃ済まない」


 一拍。


「消えるかもしれない」


 沈黙。


 コン。


 太陽が叩く。迷いはない。


 コン。


 もう一度。それが答えだった。


「……了解」


 その人物は、小さく頷いた。火を近づける。革の表面が、じわりと熱を持つ。その瞬間——女が動いた。一気に距離を詰める。


「やめろ!!」


 叫び。初めての、はっきりした“怒り”。手が伸びる。触れれば、止まる。だが——その人物は、わずかに体をずらした。触れない。そして、そのまま。火を——押し当てた。ジュッ、と音がした。革が焦げる匂い。煙が上がる。その瞬間、内側が崩れた。圧が消える。空間が、裂ける。紙の層が、バラバラになる。太陽の意識が、引き裂かれるように広がる。


 コン——


 音が、途切れる。代わりに無数の声が、同時に流れ込んできた。叫びではない。言葉でもない。ただの——“解放のノイズ”。女が、初めて苦しそうに顔を歪める。


「……っ、やめろ……それは……」


 だが、火は消えない。じわじわと、広がる。財布が、崩れていく。形を保てなくなる。

 そして——


「次で終わる」


 その人物が、静かに言った。


 炎は小さいままだった。だが、それで十分だった。黒い革はゆっくりと縮み、波打ち、内側から何かが逃げようとするように歪む。焦げた匂いの奥で、湿った紙の匂いがほどけていく。コン、という音はもう鳴らない。代わりに、張り詰めていた何かが切れる気配だけが広がる。


 太陽は、自分が“どこにいるのか”を見失った。狭いはずの内側が、急に広くなる。上下も前後も曖昧になり、紙の感触が遠のく。押し込められていた層が崩れ、重なりがほどけていく。自分と、他の誰かの境界も薄れていく。


 消えるのかもしれない——その予感は、恐怖というより静かな納得に近かった。


 そのとき、声がした。


「まだ、残る」


 あの女の声だった。だが、これまでとは違う。掠れている。どこか遠くから、引き剥がされるような響き。


 太陽は“そちら”を見る。


 炎の向こう、裂けかけた空間の縁に、女が立っている。いや、立っているというより、形を保てずに揺れている。髪はほどけ、輪郭がぼやけ、白かった顔もところどころが欠けている。


「全部は消えない」


 女が言う。


「私も……あなたたちも」


 事実を述べるだけの声。


「でも」


 そこで、わずかに笑った。

 最初の、あの歪んだ笑いではない。もっと小さくて、弱い笑み。


「続かない」


 その言葉と同時に、財布が大きく崩れた。

 革が裂け、紙が灰のようにほどける。形が保てなくなり、内と外の境界が消える。太陽の意識が、一気に“外側”へ押し出された。


 落ちる感覚。いや、浮かび上がる感覚。光が広がる。


 白かった空が、ようやく色を取り戻し始める。薄い青が滲み、遠くに雲の輪郭が見える。音も戻る。風の音。遠くの車の音。


 太陽は、アスファルトの上に横たわっていた。


 息を吸う。空気が肺に入る。咳き込む。確かな“体”がある。


 ゆっくりと起き上がると、すぐ近くに、あの財布だったものが転がっていた。もう形はほとんど残っていない。焼け焦げた革の切れ端と、灰になりかけた紙の残骸。


 その前に、あの人物が立っている。ライターを閉じ、ポケットにしまう。

 太陽と目が合う。


「戻ったな」


 それだけ言う。


 太陽は声が出ない。喉が乾いている。何を言えばいいのかもわからない。


 ただ、視線が自然と、周囲へ向く。誰もいない。だが——“いないはずの気配”も、もうない。あの重なり合う感じも、視線も、消えている。完全に、静かだ。


「……終わったのか」


 ようやく絞り出した声は、自分のものなのに少しだけ他人行儀だった。

 その人物は、少しだけ考えるように空を見た。

 青が、ゆっくりと広がっている。


「“終わり方が変わった”ってところだな」


 曖昧な答え。だが、不思議と納得できた。完全に無かったことにはならない。けれど、あの形ではもう続かない。

 太陽は、足元の残骸を見下ろす。その中に、かすかに動くものがあった。指の先ほどの、小さな黒い点。一瞬だけ、瞬く。目のように。太陽の背筋がわずかに冷える。だが、それはすぐに動かなくなった。ただの、焦げ跡に変わる。長い沈黙。風が吹く。灰が少し舞い上がり、空へ散っていく。


 その人物が、歩き出す。


「どこへ……」


 太陽が問う。

 振り返らないまま、答える。


「拾わないやつを増やす」


 短い言葉。それだけで十分だった。太陽は、その背中を見送る。やがて姿が見えなくなると、もう一度、空を見上げた。


 白ではない空。普通の、朝の空。胸に手を当てる。音はしない。ノックは、もうない。しばらくそうしてから、太陽は歩き出した。財布は拾わない。


 振り返らない。ただ、歩く。


 その足取りは、まだ少しだけ不安定だったが——確かに、自分のものだった。


 そして数日後。別の街の、別の道端で、誰かが黒い何かに気づいて、足を止める。


 それは財布ではない。ただの、焼け焦げた革の切れ端。拾う価値もない、ただのゴミ。その人は、少しだけそれを見て——何もせずに、通り過ぎた。

 それで、十分だった。

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