拾い物 第5話
白い亀裂は、音もなく広がっていった。世界が割れているのに、風も衝撃もない。ただ“境目”だけが増えていく。歩道橋も、空も、男の体も、すべてが薄い紙のように裂け、その隙間から同じ光景が何層にも重なって覗く。
その一つ一つに、財布があった。
黒い革。
同じ形。
同じ重さ。
そして、その中に——誰か。
太陽は、もう恐怖を感じていなかった。感じるための余白が、削られていく。ただ、理解だけが増えていく。
「見えるでしょ」
女の声が、どこからともなく響く。
「これが“全部”」
裂け目の向こう側で、誰かが財布を拾う。別の誰かが数える。別の誰かが胸を押さえる。別の誰かが、内側から叩く。
コン、コン。
無数の音が重なり、もはやリズムですらない塊になる。
「一つ壊れても」
女の声が続く。
「意味ないの」
その言葉の通りだった。
太陽がいま起こしている“ズレ”は、確かにこの一つの流れを乱している。だが、他のすべては変わらず動いている。無数の循環が、同時に回っている。
逃げ場はない。
「でもね」
声が、少しだけ近づく。
「だからって、無駄でもない」
その瞬間、太陽の意識が引き延ばされるように広がった。
財布の中だけではない。裂け目の向こう。さらにその向こう。別の“自分”たちの断片に触れる。
同じように閉じ込められ、同じように気づき、同じように叩いた者たち。
その残滓。完全には消えきらなかった“偏り”。それらが、微かに重なっている。
「積もるの」
女が言う。
「ほんの少しずつ」
太陽は、その意味を理解する。
完全な循環ではない。わずかな誤差が、毎回残る。ほんの僅かでも、ズレは蓄積する。
それが——今。この亀裂。
「あなたがやってること」
女の声が、初めてほんの少しだけ柔らかくなる。
「間違いじゃないよ」
だが、次の言葉は冷たかった。
「ただ、遅すぎるだけ」
その瞬間、太陽の意識が急激に収縮した。
引き戻される。暗い、狭い場所へ。札束の圧力。紙の匂い。動けない。また、ここだ。
「……まだ、終わってない」
太陽は思考の中で呟く。
返事はない。だが、代わりに——
コン。
小さな音がした。すぐ近く。自分ではない、隣の“層”から。別の誰かが、叩いている。
コン。
さらに別の場所からも。
コン。
コン。
コン。
最初はバラバラだった音が、少しずつ重なっていく。
完全ではない。だが、さっきよりも揃っている。太陽は、わずかに笑った。――ひとりじゃない。
コン。
自分も叩く。弱くてもいい。ずれていてもいい。続ける。
コン。
外では、男が崩れ落ちていた。
口から溢れる髪を引き抜きながら、必死に呼吸しようとしている。目は見開かれ、焦点が合っていない。
その胸の奥で。確かに、音が増えている。
コン、コン。
一つではない。複数。内側から、いくつも。
「……っ、やめ……ろ……」
男の声が、掠れる。そのとき、女が現れた。今度は、はっきりと。裂けた空間の縁に立っている。無数の自分たちの“外側”に。すべてを見下ろす位置に。その顔から、笑みが消えている。
「ほんとに……やるんだ」
静かな声。怒りでも、焦りでもない。観察するような、冷たい響き。
コン、コン、コン。
音は止まらない。むしろ、増えていく。他の“層”からも、影響が滲み出している。完全な同期ではない。だが、無視できない揺らぎ。女が、ゆっくりと手を伸ばす。空間の裂け目に触れる。
すると――ひびが、固定された。
広がりが止まる。
「ここまで」
女が言う。その一言で、音が鈍る。
コン……コン……
弱まる。押し潰されるように。太陽は、必死に叩く。だが、重い。
さっきまでとは比べものにならないほど、重い。
まるで、世界そのものが蓋をしているように。
「続きは、また今度」
女が、わずかに笑う。最初に見たあの笑みではない。少しだけ、歪んだ笑み。
「ちゃんと回るから」
裂け目が、閉じていく。白い空が、元に戻る。
男の体が、ぐらりと揺れ——そのまま静かに倒れた。
動かない。呼吸もない。ただの“殻”になる。ポケットから、財布が滑り落ちる。
アスファルトに当たって、小さな音を立てる。
カサ。
誰もいない歩道橋。白い空。そして、しばらくして——足音。別の誰かが、階段を上ってくる。軽い足取り。何も知らない、ただの通行人。黒い財布に気づく。立ち止まる。
少しだけ迷って——手を伸ばす。
その瞬間。財布の中で、太陽は最後の力を振り絞る。
コン。
わずかでもいい。遅らせる。歪ませる。それしかできない。
だが——
コン。
確かに、音は鳴った。拾い上げる手が、一瞬だけ止まる。ほんの一瞬。それでも、そのズレが、またどこかに残る。
男は首を傾げる。
「……?」
だが、結局、財布を手に取る。開く。札束が見える。
そして——ほんの一瞬だけ。紙の隙間に、無数の“目”が瞬いた気がした。
男は眉をひそめる。だが、すぐに笑った。
「……まあ、いいか」
その言葉と同時に。
コン。
小さな音が、胸の奥で鳴った。




