拾い物 第4話
真っ暗で息ができない。いや、そもそも息という感覚がない。ただ、“詰め込まれている”。
周囲に触れるのは紙の感触。札束だ。
ぎっしりと、自分の周りを埋めている。
動けない。だが、感覚だけはある。
誰かが財布を持ち上げる。
揺れる。歩く振動。そして——声。
「お、財布落ちてる」
知らない男の声。若い。軽い調子。
「ラッキー」
開かれる。光が差し込む。
その瞬間、太陽は“外”を見た。
新しい持ち主の顔。そして、その背後に——白い空。歩道橋。同じ場所。同じ朝。
その男の背後に、濡れた髪の女が立っている。
目が合う。女が、にやりと笑う。
「また増えるね」
コン、コン。
財布の内側から、太陽は必死に叩いた。だが、音は外には届かない。その代わりに——男の胸の奥で、小さく音が鳴った。
コン、コン。
その小さな音は、男自身もまだ気づいていないほど微かだった。だが、確かに鳴った。
太陽は暗闇の中でそれを聞き逃さなかった。自分がそうだったように、最初は違和感にもならない。ただの“ズレ”。ただの“気のせい”。だが、それは確実に始まっている。
男は財布を開いたまま、札束を指で弾いた。
「うわ、マジかよ……」
と、半ば笑いながら呟く。
その声が、紙越しに歪んで聞こえる。
太陽は動けない。だが、“感じる”ことだけはできる。札の一枚一枚が、男の欲望に反応してわずかに脈打つのがわかる。
増える準備をしている。
コン。
もう一度、音が鳴った。さっきより少しだけ強い。
男が胸に手を当てる。
「……なんだ?」
小さく呟くが、すぐに肩をすくめて笑い飛ばす。
「疲れてんのかな」
違う、と太陽は叫びたかった。だが声はない。喉もない。ただ、意識だけが押し込められている。
そのとき、紙の隙間から“目”が開いた。一つ、また一つ。すべてが太陽の目だ。
だが、それだけではない。さらに奥、札束の層の向こう側に、別の“目”がある。
黒い。濡れたような光を持つ、あの女の目。
「静かにして」
直接、意識に触れる声。
太陽の思考が凍りつく。
「順番だから」
女の声は穏やかだった。最初に聞いたときの恨みや怒りはない。ただ、淡々としている。作業をこなすような声音。
「ちゃんと回ってる」
コン、コン。
男の胸の奥で、音が育っていく。
太陽は“理解させられる”。これは呪いではない。循環だ。
拾う。欲しがる。増える。取り込まれる。入れ替わる。そしてまた、拾われる。
終わりではなく、仕組み。
「やめろ……」
思考の中で、かすかに抵抗する。
女が、くすりと笑う。
「やめたら、止まると思う?」
その瞬間、太陽の視界が広がった。
財布の外が見える。
男が歩道橋を降りていく。白い空は相変わらず均一で、時間の感覚を奪う。世界全体が少しだけ現実からずれている。
そして、橋の下。ガードレールの脇に、何かがある。黒い塊。近づく。それが“人”だとわかる。
スーツ姿の男が、うつ伏せに倒れている。顔は見えない。だが、背格好は——太陽自身だ。
「前の」
女が言う。
「抜け殻」
男(新しい持ち主)は気づかない。視線を向けることもなく、そのまま通り過ぎる。世界が、都合よく歪んでいる。
「ちゃんと置いてるでしょ」
女の声が続く。
「無くなると困るから」
何に困るのか、太陽にはわかる。
“現実”の整合性。
誰かが消えた穴を、そのままにしておくと、世界が不自然になる。だから、外側だけは残す。中身だけを入れ替える。
コン、コン。
男の胸の音が、はっきりと聞こえるようになる。
男がまた胸に触れる。
「……なんだこれ、ほんとに」
少しだけ不安そうな声。だが、その手は財布を強く握りしめている。
離さない。もう、離せない。
太陽は、ふと気づく。札束の奥に、さらに“何か”がいる。自分だけじゃない。もっと前の“誰か”。押し込められた意識が、層になって重なっている。声にはならないが、確かに“いる”。
その一つが、かすかに触れてきた。
——まだ浅い。
意味が流れ込む。
——今なら、混ざれる。
太陽は理解する。
完全に沈みきる前なら、“外”に干渉できる可能性がある。
わずかでも。
コン。
男の胸の音に、合わせる。
コン。
もう一度。太陽は、自分も叩く。内側から。札の中から。
コン。
その瞬間、男がびくりと体を震わせた。
「……っ、なんだよ!」
立ち止まる。呼吸が乱れる。胸を押さえる手が強くなる。
コン、コン。
今度は二重の音。外側と、内側。わずかにズレたリズム。不協和音。
男の顔に、はっきりとした恐怖が浮かぶ。
「やめて」
女の声が、低くなる。
初めて、感情が滲む。
「順番、崩さないで」
コン、コン、コン。
太陽は叩く。必死に。自分が消える前に、何かを残すために。
男の膝が崩れる。歩道橋の階段の途中で、よろめき、手すりにしがみつく。
「くそ……なんだこれ……!」
財布が、ポケットの中で蠢く。外へ出ようとするように。同時に、中へ引きずり込もうとするように、均衡が崩れ始める。
女が、初めて焦った。
「やめろ」
その声は、さっきまでとは違う。
低く、濁っている。
「壊れる」
太陽は止めない。
コン、コン、コン、コン——
音が重なり、歪む。外と内の境界が揺らぐ。
世界が、ひび割れるように白く滲む。
男の口から、何かがこぼれた。黒い、細いもの。
髪だ。
「……は?」
男自身も気づく。指で触れる。引く。
ずるり、と長い髪が口の中から引き出される。
止まらない。
「うわ、うわ、うわあああ!!」
絶叫。
その瞬間——“裂けた”。
音もなく、空間が。白い空に、黒い線が走る。
まるで紙を破るように、世界が二つに割れる。
その隙間から、無数の“財布”が見えた。同じ黒い革。無限に連なる。そのすべての中に、誰かが詰まっている。
太陽は、その光景を見てしまう。
理解してしまう。これは一つじゃない。数えきれないほど、繰り返されている。
「だから言ったのに」
女の声が、遠くなる。
「止まらないって」
コン。
最後に、一度だけ音が鳴った。それが、誰のものだったのか。もう、区別はつかなかった。




