拾い物 第3話
ノックは、確かに“内側”から鳴っていた。
コン、コン。
玄関ではない。机の上でもない。もっと近い——太陽のすぐそば、耳の奥を直接叩かれているような音。
コン、コン。
太陽は動けなかった。呼吸が浅くなる。視線だけが、机の上の財布に釘付けになる。
財布が、ゆっくりと脈打っている。
まるで心臓だ。
膨らみ、縮み、そのたびに革の隙間から何かが押し出される。さっき覗いた指が、さらに外へと伸びている。一本だけではない。二本、三本と増えていく。
コン、コン。
音が強くなる。
太陽はとうとう耐えきれず、叫んだ。
「うるさい!!」
その瞬間、すべてが止まった。
音も、動きも、空気の震えも、ぴたりと止む。
そして——
「じゃあ、開けるね」
耳元で囁かれた。冷たい息が、鼓膜を撫でる。
次の瞬間、財布が弾けた。
バン、と乾いた音とともに、口が大きく裂ける。革が内側から押し破られ、裂け目から黒いものが噴き出した。
髪だ。
濡れた髪が一気に溢れ、机から床へ、壁へ、天井へと広がる。まるで水が溢れるように、部屋を満たしていく。
太陽は後ずさった。だが、すぐに足首に何かが絡みつく。
髪が、床から這い上がってきている。
「やめろ……来るな……!」
叫びは空気に吸い込まれる。
髪の中から、白い顔がいくつも浮かび上がる。ひとつではない。二つ、三つ、数えきれないほどの顔。どれも同じ——あの女の顔。
「ねえ」
声が重なる。
「まだ足りない」
「もっと欲しいでしょ」
「だから増やしたのに」
顔たちが一斉に口を開く。
「「「どうして使わないの?」」」
太陽は首を振る。だが、体はもうほとんど動かない。髪が腰まで絡みつき、締め付けてくる。
「違う……俺は……」
言葉が続かない。
そのとき、玄関のドアが、ガチャ、と音を立てた。
鍵をかけたはずなのに。ゆっくりと、ドアノブが回る。
ギィ……
扉が、開く。光が差し込む。そこに立っていたのは——“自分”だった。
多田太陽が、もう一人。
スーツ姿で、少し疲れた顔をしている。手にはコンビニの袋。
まるで、今朝の自分そのまま。
もう一人の太陽は、部屋の中を見渡し、眉をひそめた。
「……なんだこれ」
床一面の髪。壁に張り付く顔。もがく自分。
それを見ているはずなのに、彼の目には何も映っていないようだった。
普通の部屋にしか見えていない。
もう一人の太陽は、ゆっくりと歩き出す。机に近づき、壊れた財布を拾い上げる。
その瞬間、髪も顔も、すべてが消えた。静かな部屋に戻る。絡みついていたはずの髪も、消えている。太陽は床に倒れ込んだまま、息を荒げた。
動ける。体が自由だ。だが——
「……なんだよ、これ」
声がした。
机の前に立つ“もう一人の太陽”が、財布を開いている。
中には、ぎっしりと札束が詰まっている。
「ラッキー……」
小さく呟く。その言葉に、太陽の背筋が凍る
やめろ、と叫ぼうとする。だが、声が出ない。喉が動かない。
体も、指一本すら動かせない。視界だけが、固定されている。
まるで、自分が“見ている側”に回されたように。
「とりあえず、持って帰るか」
もう一人の太陽が財布をポケットに入れる。そのとき、ふと顔を上げた。視線が、まっすぐこちらを向く。目が合う。見えている。今度は、確実に。
もう一人の太陽が、ゆっくりと笑った。
「やっと空いた」
低い声。
それは、自分の声ではなかった。
「次、お前ね」
その瞬間、視界が反転した。
暗転。そして——白い空。
太陽は、歩道橋の上に立っていた。コンビニの袋をぶら下げている。見覚えのある朝。同じ白い空。足元に、黒い財布が落ちている。
デジャヴ。
いや、違う。理解してしまう。これは“繰り返し”だ。逃げられない。拾わなければいい。そう思う。
だが、体が勝手に動く。手が伸びる。財布を拾い上げる。重い。
——知っている重さだ。
「やめろ……」
声が漏れる。だが、手は止まらない。
財布を開く。中には、ぎっしりと札束。
そして——紙幣の隙間から、こちらを見上げる“自分の目”。
それが、ゆっくりと瞬きをした。
コン、コン。
どこかで、ノックの音が鳴った。
ノックの音は、今度ははっきりと“外”から聞こえていた。
コン、コン。
歩道橋の上だというのに。
周囲には誰もいない。車の音も、風の音もない。ただ白い空の下で、その音だけが異様に響く。
コン、コン。
太陽の手の中で、財布が震えた。
いや、震えているのは財布だけではない。手も、腕も、体の芯も、同じリズムで揺れている。ノックと同期している。
コン、コン。
「開けて」
背後から声。
振り向くと、誰もいない。だが、確実にすぐ後ろで囁かれた。
「もう中にいるでしょ」
理解が追いつかない。
中? 何の?
その瞬間、胸の奥で“音”がした。
コン。
一拍遅れて、もう一度。
コン。
太陽は息を呑んだ。
——内側だ。
ノックは外からじゃない。自分の中から鳴っている。
心臓の鼓動とは違う。もっと硬い音。骨を叩くような、乾いた音。
コン、コン。
胸の内側から、誰かが“叩いている”。
「やめろ……」
思わず胸を押さえる。だが、止まらない。むしろ強くなる。
コン、コン、コン、コン。
「出して」
声が、今度ははっきりと内側から聞こえた。
「そこ、私の場所」
太陽の喉がひくつく。呼吸が浅くなる。視界が滲む。
財布が、手の中でゆっくりと開いた。自分の意思ではない。勝手に、口を開く。中の紙幣が、するりと滑り出す。
地面に落ちる——はずが、落ちない。
宙に浮かんだまま、太陽の周囲を囲むように広がる。
一枚、また一枚と増えていく。さっき見た光景と同じだ。
だが、違う。紙幣の裏にある“目”が、すべて同じ顔をしている。
自分の顔だ。無数の自分が、無表情にこちらを見ている。
「やめろ……やめてくれ……」
声はかすれるだけで、何も止まらない。
コン、コン。
胸の内側からのノックが、限界まで強くなる。
コン、コン、コン、コン、コン——
「開けるよ」
その一言で、音が止んだ。
次の瞬間。胸が、内側から裂けた。
音はしなかった。痛みもなかった。ただ、“開いた”という感覚だけがあった。
太陽は、自分の胸を見下ろす。服も、皮膚も、骨も、すべてが綺麗に左右に開いている。
中は——空っぽだった。
何もない。心臓も、血も、内臓も。ただ、ぽっかりとした空洞。その奥から、ゆっくりと“それ”が顔を出した。
濡れた髪。白い顔。裂けた口。
あの女。
「やっと入れた」
女が、太陽の胸の中から這い出てくる。
内側から外へ。まるで最初からそこにいたかのように、滑らかに。
太陽は動けない。叫べない。ただ見ていることしかできない。
女は完全に外へ出ると、首を回し、肩を鳴らした。
そして、太陽を見た。いや——“外側”の太陽を。
歩道橋の上に立っている、もう一人の太陽を。
その太陽は、無表情で立ち尽くしている。胸は閉じている。何も起きていないように見える。
女はその前に歩み寄る。
「交代」
小さく囁く。
次の瞬間、外側の太陽の体が、ぐらりと揺れた。
目が、こちらを見る。その目の奥に、自分がいるのがわかる。閉じ込められている。暗い中に。狭い中に。
——財布の中だ。
理解した瞬間、視界が急激に狭まった。
光が細くなる。音が遠ざかる。
最後に見えたのは、女が自分の体をなぞるようにして、満足げに笑う顔だった。




