他拾い物 第2話
ドアの前で、太陽は動けずにいた。ノックの音は止んでいる。だが、気配だけが消えない。ドア一枚を隔てた向こう側に、確実に“何か”が立っている。
床に散らばった紙幣が、微かにざわめいた。風もないのに、端がめくれ、擦れ合う音が重なる。その一枚一枚の下から、じっとりとした黒い染みが広がっていく。
「……開けて」
再び声がした。今度はノックと同時に。
コン、コン。
一定のリズム。まるで心臓の鼓動のように、規則正しい。
太陽は唾を飲み込んだ。開けるべきではない。理性がそう告げている。だが、開けなければならないという奇妙な衝動が、胸の奥からせり上がってくる。
「落とし物、ですよ」
コン、コン。
「あなたが拾ったもの」
コン、コン。
「返してもらいに来ただけです」
コン、コン。
音が速くなる。鼓動が乱れるように、不規則に、強く。
太陽は耐えきれず、一歩後ろに下がった。その瞬間、背中が何かに触れた。
振り向く。
そこには、さっきまでなかったはずの“ドア”があった。
玄関とは反対側、部屋の奥の壁に、もう一つの扉がある。古びた木製の扉。取っ手は錆びつき、黒ずんでいる。
記憶にない。こんなもの、この部屋にはなかった。だが、確かにそこにある。
「そっちじゃないよ」
玄関の向こうから声がした。
「こっち」
コン、コン、コン、コン。
音が激しくなる。
太陽は無意識に、背後の古い扉の取っ手に手をかけていた。
冷たい。
いや、冷たいというより、濡れている。ぬめりが指に絡みつく。
ゆっくりと回す。ギィ、と重い音を立てて扉が開いた。
中は暗い。光が届かない、底の見えない闇。だが、確かに奥行きがある。単なる壁の裏ではない。どこかへ続いている。
その奥から、かすかな音が聞こえた。
水音。ぽたり、ぽたり、と、何かが滴る音。
太陽は一歩、足を踏み入れた。
その瞬間、背後で玄関のドアが勢いよく叩かれた。
ドンッ!!
「開けて!!」
絶叫。さっきまでの掠れた声とは違う、生々しい怒りと焦りが混じった叫び。
「そっちに行くな!!」
太陽は振り返りそうになる。だが、体が動かない。足が勝手に前へ進む。
闇の中に入ると、空気が変わった。湿っている。腐ったような匂いが鼻を突く。
足元に何かが当たる。ぐに、と柔らかい感触。視線を落とすと、紙幣だった。
だが、それはさっきのものではない。濡れている。水ではない。黒く、粘つく液体に浸っている。
さらに先にも、無数の紙幣が敷き詰められている。
そのすべてが、同じように濡れている。
ぽたり。頭上から何かが落ちてきた。頬に触れる。
ぬるい。反射的に手で拭うと、指が黒く染まった。
血だ。
「だから言ったのに」
すぐ後ろで声がした。
太陽は凍りついた。
振り向くと、玄関の外にいたはずの“女”が、もうそこに立っていた。
髪は濡れ、顔は半分以上が影に沈んでいる。だが、口だけがはっきりと見えた。裂けるように広がり、笑っている。
「返さないと、こうなるって」
太陽は後ずさった。だが、背後はもう闇ではない。いつの間にか、行き止まりになっている。逃げ場はない。
女が一歩近づく。
足元の紙幣が、ぐちゅ、と音を立てる。
「ねえ」
女の顔が近づく。息がかかる距離。
腐臭が強くなる。
「いくら増えた?」
太陽は答えられない。声が出ない。
女は首を傾げた。
「数えたでしょ」
その瞬間、太陽の頭の中に、映像が流れ込んできた。
数えている自分の姿。札束を広げ、指で弾き、金額を確認する。何度も、何度も、繰り返し。
そして、その背後に、いつも“誰か”が立っている。
濡れた髪の女が。
気づいていなかっただけで、最初からずっとそこにいた。
「あなたが増やしたの」
女が囁く。
「欲しがった分だけ」
指が太陽の胸に触れる。
冷たい。
「だから、払って」
その言葉と同時に、足元の紙幣が一斉に動いた。
ざわり、と波打つように持ち上がる。
一枚一枚がめくれ、その裏側から“目”が現れた。
無数の目。
すべてが太陽を見ている。
「やめろ……」
ようやく声が出た。
だが、遅い。
紙幣が跳ね上がり、太陽の体に貼りつく。顔に、腕に、胸に。剥がそうとしても、指に吸い付くように離れない。
その裏の目が、瞬きをする。
「見てるよ」
女が笑う。
「全部」
紙幣が口の中に入り込む。喉を塞ぐ。息ができない。
視界が揺れる。耳鳴り。心臓の音。
ドクン、ドクン、ドクン。
——コン、コン。
ノックの音がした。
意識が途切れかけた瞬間、はっきりと聞こえた。
コン、コン。
目を開ける。太陽は自分の部屋の床に倒れていた。朝の光が差し込んでいる。白い空。何もない。紙幣も、闇も、女も、消えている。荒い息をつきながら、ゆっくりと起き上がる。
夢だったのか。
そう思った瞬間、視線が机の上に吸い寄せられた。
そこには、あの財布がある。何事もなかったかのように、閉じられている。
コン、コン。
玄関のドアが鳴った。
太陽の体が固まる。
「すみません」
若い男の声だった。
「この辺で財布、落としませんでしたか?」
太陽は動けない。
声が続く。
「黒い革の……」
一瞬、言葉が途切れる。
そして、少しだけ笑ったような気配がした。
「中身、増えてませんでした?」
ドアの向こうで、何かが息を潜めている。
そのとき、机の上の財布が、ゆっくりと膨らんだ。
中から、何かが押し広げている。細く、濡れた“指”が、隙間から覗いた。
コン、コン。
もう一度、ノックが鳴る。今度は、内側からだった。




