拾い物 第1話
夜勤明けの帰り道、空がやけに白かったのを覚えている。
朝焼けでも曇りでもない、均一に塗りつぶされたような白。目に痛いほどではないのに、どこか落ち着かない。
多田太陽はコンビニの袋をぶら下げたまま、歩道橋の上で立ち止まり、空を見上げていた。
疲れているのだと思った。ここ最近、残業続きでまともに寝ていない。
会社の売上は落ち込み、部署は縮小され、いつ自分が切られてもおかしくない。そんな状況で、気が張っているのだろうと、無理やり納得した。
歩道橋を降りると、足元に黒いものが落ちていた。
革の財布だ。
使い古されているが、手入れはされているようで、妙に艶がある。周囲に人影はない。早朝の住宅街は静まり返っていた。
拾うかどうか、一瞬迷った。面倒ごとは避けたい。だが、放置しておくのも気が引ける。
太陽はため息をつき、財布を拾い上げた。
重い。
紙幣がぎっしり入っている感触だった。中身を確認するために開くと、予想通り一万円札が何枚も重なっている。ざっと見ただけでも十万円以上はある。免許証も入っていたが、顔写真の部分が妙にぼやけて見えた。ピントが合わない。名前も、読もうとすると視線が滑るようにして認識できない。
「……?」
疲れのせいだと片付けようとしたが、違和感は消えない。太陽は財布を閉じ、ポケットに入れた。とりあえず家に帰ってから考えよう。交番に届けるにしても、少し休んでからでいい。
アパートに戻ると、玄関の鍵を開けた瞬間、ひやりとした空気が流れ出てきた。エアコンは切っているはずなのに、室内だけが妙に冷えている。靴を脱ぎながら、首筋に寒気が走った。
部屋はいつも通りだった。散らかった机、脱ぎっぱなしの服、洗い物の溜まったシンク。何も変わっていない。なのに、どこか“誰かがいた後”のような、微かな気配が残っている。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
太陽は財布を机の上に置き、シャワーを浴びた。湯気に包まれると、ようやく現実に戻ってきたような気がした。体を拭き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して一口飲む。喉を通る冷たさが、妙に現実的だった。
机の上の財布に視線がいく。
さっきよりも、少しだけ膨らんでいるように見えた。
「……そんなわけ」
自嘲気味に笑い、財布を手に取る。開くと、紙幣の束がさっきより明らかに増えている。数えるまでもない。倍近くになっている。
心臓が一拍遅れて強く打った。
「なんだよ、これ……」
免許証をもう一度見る。やはり顔がぼやけている。いや、さっきよりもさらに不明瞭になっている気がする。名前の欄は、まるで最初から印刷されていなかったかのように空白だった。
その時、スマートフォンが震えた。会社からのメッセージだ。画面を見ると、上司から「今日の午後、重要な話がある」とだけ送られてきている。
嫌な予感がした。
太陽は財布を見下ろした。金が増える。持ち主は不明。奇妙な現象。普通ならすぐに警察へ行くべきだ。だが、現実問題として、金が必要だった。家賃も光熱費も、クレジットカードの支払いも、すべてが首を絞めている。
ほんの少しだけなら――。
そう考えた瞬間、部屋の奥から「コツ」と音がした。
振り向く。誰もいない。押し入れの襖が、ほんの数ミリだけ開いている。
さっきまで閉まっていたはずだ。
太陽はゆっくりと立ち上がり、押し入れに近づいた。心臓の鼓動がやけに大きく響く。手を伸ばし、襖に触れる。
冷たい。
指先が触れた瞬間、内側から「カリ」と何かが引っかくような音がした。
太陽は反射的に手を引っ込めた。息が浅くなる。耳鳴りがする。
「……誰か、いるのか?」
答えはない。
だが、確かに“何か”がいる気配だけが、濃くなる。そのとき、机の上の財布が「パキ」と小さく鳴った。
視線を戻すと、財布がわずかに開いている。まるで中から何かが押し広げているように。
太陽は恐る恐る近づき、財布を覗き込んだ。紙幣の隙間から、黒いものが見えた。
髪の毛だ。
濡れたように光る、細く長い髪が、札束の間からゆっくりと這い出してくる。
思考が止まった。
髪はするすると伸び、財布の外へと溢れ出す。床に落ち、蛇のようにうねる。その先端が、太陽の足首に触れた。
冷たい。氷のように冷たい。
その瞬間、耳元で誰かの声がした。
「——返して」
振り向いても、誰もいない。だが、確かにすぐ背後で囁かれた。
「それ、わたしの」
声は女のものだった。低く、掠れていて、どこか水の中から聞こえるような響きがある。
太陽は後ずさりした。足に絡みつく髪が、ずるりと引きずられる。
「返して……返して……」
声が増える。一人ではない。二人、三人、いや、もっと多い。重なり合うように、同じ言葉を繰り返す。
財布から溢れ出た髪が、床一面に広がっていく。その間から、白い指が見えた。細く、節の目立つ指。爪は黒く変色している。
「やめろ……」
太陽は思わず叫んだ。だが、声は震え、ほとんど音にならない。
指が、さらに外へと伸びる。手首、腕、そして顔。
髪に覆われた顔が、ゆっくりと持ち上がる。隙間から覗く皮膚は異様に白く、目は見えない。ただ、口だけが大きく開き、裂けるように笑っている。
「増やしてあげたのに」
女の声が、今度ははっきりと聞こえた。
「どうして返さないの?」
太陽は財布を掴み、思い切り床に叩きつけた。中身が散らばる。紙幣と、髪と、白い手が、部屋中に広がる。
その瞬間、すべての音が止んだ。
床には、ただの紙幣が散らばっているだけだった。髪も、手も、消えている。
太陽は荒い息をつきながら、その場に崩れ落ちた。
「……夢、か……?」
そう呟いたとき、スマートフォンが再び震えた。
画面にはニュースの通知が表示されていた。
『女性失踪事件、被害者の所持品が発見されるも身元不明』
記事を開くと、見覚えのある財布の写真が載っていた。
太陽の手が震える。
記事にはこう書かれていた。
——発見された財布の中身は空だった。紙幣も、身分証も、一切確認されていない。
ゆっくりと視線を床に落とす。
そこには、さっきまでと同じように、大量の紙幣が散らばっている。
だが、そのすべてに、うっすらと指の跡のような黒い染みがついていた。
そして、その染みが、じわじわと動いている。
まるで、内側から何かが這い出そうとしているかのように。
太陽は息を呑んだ。
そのとき、ドアの外で足音が止まった。
コン、コン、とノックの音。
「……多田さん?」
聞き覚えのない女の声。
「落とし物、届けに来ました」
太陽の喉が引きつる。
床の紙幣が、一斉に震えた。ドアの向こうで、もう一度ノックが鳴る。
「開けてください」
その声は、さっき財布の中から聞こえたものと、まったく同じだった。




