同じ夢を見る小屋 最終話
斜面の下から、風に消されそうなほど小さな音が聞こえた。枝が折れる音か、石が転がる音か、それとも――管理人の身体がどこかにぶつかった音か。和也は息を呑み、しばらく動けなかった。胸の鼓動が耳の奥で響き、手のひらは汗で濡れている。
助かった。
そう思った。
だが、その言葉は胸の奥で空回りし、どこかに引っかかったまま落ちてこなかった。
風が止んだ。
さっきまで森を揺らしていた強烈な風が、嘘のように静まり返った。木々は微動だにせず、落ち葉も一枚たりとも動かない。まるで森全体が、突然息を止めたようだった。
和也はゆっくりと立ち上がり、崖の縁へと近づいた。足元の土が崩れないよう慎重に歩く。膝が震え、呼吸が浅くなる。崖下を覗き込むと、木々の間に管理人の身体が見えた。動かない。斧は少し離れた場所に落ちている。
死んでいる――そう思った。
だが、その確信はどこか薄かった。
管理人が死んだことよりも、もっと大きな“何か”が、この森に潜んでいる気がした。
和也は崖から離れ、背中を木に預けた。息を整えようとするが、肺がうまく動かない。夢の中で感じた冷気が、また身体の中に入り込んでくるようだった。
森は静かだった。
静かすぎた。
鳥の声も、風の音も、虫の羽音すらない。
音という音が、すべて消えている。
その静寂の中で、和也はふと気づいた。
――自分以外の“気配”がある。
背後ではない。
左右でもない。
森の奥、木々の影の向こうに、何かが立っている。
和也はゆっくりと視線を向けた。
木々の間に、黒い影が揺れていた。人の形をしているようで、していない。輪郭が揺れ、形が定まらない。
夢で見た“あれ”と同じだった。
影は動かない。ただ、そこに“いる”。
和也は喉が乾くのを感じた。声を出そうとしたが、喉が凍りついたように動かない。足も動かない。影に見つめられているような感覚が、身体を縫い付けていた。
影は、ゆっくりと揺れた。
風は吹いていない。
だが、影だけが揺れている。
その揺れが、まるで“呼吸”のように見えた。
和也は後ずさった。足が土に沈み、身体がふらつく。影は動かない。だが、距離が縮まっているように感じた。森の空気が重くなり、胸が締めつけられる。
そのとき――。
耳元で、囁きがした。
――まだだよ。
和也は叫び声を上げそうになった。だが声は出なかった。喉が閉じ、息が詰まる。視界が揺れ、森の色が歪む。影がゆっくりと形を変え、木々の間からこちらへ滲み出してくるように見えた。
和也は必死に後ずさり、木の幹に背中をぶつけた。痛みが走り、ようやく身体が動いた。影から目を離さずに、ゆっくりと距離を取る。
影は追ってこない。
だが、そこに“いる”。
その存在が、森の空気を歪めている。
和也は震える手で木の幹を掴み、森の出口を探した。だが、どの方向も同じに見える。木々が歪み、影が揺れ、道が消えていく。
夢の中と同じだ。
森が、形を変えている。
和也は深呼吸をし、意を決して走り出した。影から目を離した瞬間、背後で落ち葉が沈む音がした。誰かが歩く音ではない。何かが“滑る”ような、湿った音だった。
和也は振り返らず、ただ前へ走った。
だが、胸の奥ではひとつの確信が生まれていた。
助かったのではない。
まだ、終わっていない。
森の奥で、影が揺れた。
その揺れは、まるで笑っているようだった。
だが、立ち止まることはできなかった。
和也は振り返らず、ただ前へ走った。だが、森の奥で黒い影が揺れた。夢で見た“あれ”が、木々の間に立っている。輪郭が揺れ、形が定まらない。まるで闇そのものが立ち上がったようだった。
影は動かない。
だが、距離が縮まっている気がした。
和也は足を止め、息を整えようとした。だが、胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。視界が揺れ、森の色が歪む。夢の中で落下したときの感覚が蘇り、足元がふらついた。
そのとき――。
耳元で、囁きがした。
――まだだよ。
和也は叫び声を上げた。だが声は出なかった。喉が凍りつき、息が詰まる。視界が白く弾け、森の景色が歪んでいく。木々が揺れ、影が滲み、地面が波打つ。
和也は後ずさり、木の幹に背中をぶつけた。痛みが走り、ようやく身体が動いた。だが、影はもうすぐそこにいた。距離は変わっていないはずなのに、存在だけが近づいてくる。
影は、呼吸をしていた。
ゆっくりと、深く。
その呼吸が、森の空気を揺らしている。
和也は震える手で木の幹を掴み、森の出口を探した。だが、どの方向も同じに見える。木々が歪み、影が揺れ、道が消えていく。
夢の中と同じだ。
森が、形を変えている。
和也は意を決して走り出した。だが、足元の土が崩れ、身体が前へ投げ出された。視界が回転し、空と木々が逆さまになる。
崖だ――そう気づいたときには遅かった。
身体が宙に浮き、重力が消え、世界が反転する。風が耳元を裂くように吹き抜け、視界は闇に溶けていく。だが、その闇の中で、和也は確かに“何か”の気配を感じていた。
落ちているのは自分だけではない。
誰かが、すぐ背後にいる。
その気配は、落下の速度に合わせてついてくる。距離は縮まらないが、離れもしない。まるで和也の背中に張りつき、落下の行方を見守っているかのようだった。
やがて、風の音がふっと消えた。
落下が止まったのだと気づいたとき、和也は地面に叩きつけられた。衝撃はあったが、痛みはなかった。身体が地面に沈み込むような感覚だけが残り、呼吸がうまくできない。
視界がぼやけ、森の匂いが濃くなる。湿った土、腐葉土、苔の匂い。それらが混じり合い、肺の奥まで入り込んでくる。
和也はゆっくりと目を開けた。
そこは、夢の森だった。
現実の森ではない。
夢の中で落ちた、あの場所だった。
背後で、落ち葉が沈む音がした。
和也は振り返れなかった。身体が動かない。腕も足も、地面に縫い付けられたように重い。呼吸だけが浅く続き、胸が苦しくなる。
そのとき、耳元で囁きがした。
――やっと来たね。
その声は、風のようであり、誰かの声のようでもあった。男か女かもわからない。だが、確かに“こちらを知っている”声だった。
和也は喉を震わせた。声を出そうとしたが、空気が漏れるだけだった。
背後の気配が近づく。落ち葉が沈む音が、ひとつ、またひとつと重なる。ゆっくりと、確実に距離を詰めてくる。
和也は必死に身体を動かそうとした。だが、指先すら動かない。夢だと気づいても、夢の中では逃げられない。そんな理不尽さが、胸を締めつけた。
気配はすぐ背後まで来た。
和也の首筋に、冷たい息が触れた。
――まだ終わらないよ。
その瞬間、視界が白く弾けた。
森が消え、闇が広がり、足元が崩れ落ちる。
和也は再び落下した。
だが、今度は止まらなかった。
落ち続ける。
どこまでも、どこまでも。
底のない闇へ。
最後に聞こえたのは、あの声だった。
――夢の続きへ、おいで。
和也は、夢の続きに落ちていった。
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