同じ夢を見る小屋 第3話
朝の光が差し込んでいるはずなのに、部屋は薄暗かった。
和也は布団の上でしばらく動けずにいた。夢の冷気がまだ身体の中に残っているようで、指先までじんと痺れている。胸の奥には、あの囁き声がこびりついていた。
――まだだよ。
思い出すだけで、背筋が冷たくなる。夢の中で落下したときの感覚が、まだ足元に残っている。布団から足を出すと、床の冷たさが現実を突きつけてきた。
和也は深呼吸をし、ようやく立ち上がった。窓を開けると、冷たい朝の空気が流れ込んでくる。森は静かで、昨日の夜のような不気味さは感じられない。鳥の声も聞こえる。だが、その自然な音が逆に不自然に思えた。
北山はもう起きているだろうか。昨日の噂話が頭をよぎる。遭難して死ぬ夢。夢で死んだ者は現実でも――。
和也は首を振った。あれはただの怪談だ。北山も笑っていた。だが、あの笑いの奥にあった影が、今になって重くのしかかってくる。
部屋を出て、廊下を歩く。床板が軋む音が、やけに大きく響いた。北山の部屋の前で立ち止まり、軽くノックした。
「北山さん、起きてますか?」
返事はなかった。
もう一度ノックする。やはり返事はない。和也は不安を覚えながら、扉を少し開けた。
部屋は空だった。布団は乱れ、床には泥の跡がついている。まるで誰かが夜中に外へ出たような痕跡だった。
和也は胸がざわつくのを感じた。夢の中で見た落ち葉の跡と、どこか似ている気がした。
そのとき、外から管理人の声が聞こえた。
「新居見さん! ちょっと来てください!」
和也は慌てて外へ出た。管理人は小屋の裏手の方を指差している。表情は強張り、目がわずかに震えていた。
「北山さんが……崖の下で……」
言葉が途切れた。
和也の心臓が跳ねた。足が勝手に動き、管理人の後を追う。小屋の裏手には細い獣道があり、その先に崖があった。管理人はその縁に立ち、下を指差した。
和也は恐る恐る覗き込んだ。
そこに、北山が倒れていた。動かない。身体は不自然な角度に曲がり、片腕が岩に引っかかっている。顔は見えなかったが、血の気のない肌が朝の光に晒されていた。
和也は息を呑んだ。夢の中で自分が落ちたときの姿が、重なるように見えた。
「警察に連絡します……」
管理人の声は震えていた。だが、その震えが恐怖なのか、別の感情なのかはわからなかった。
和也は崖の縁から離れ、膝が震えるのを感じた。夢と同じだ。落下。死。あの囁き声。
――まだだよ。
頭の奥で、声が蘇る。
やがて警察が到着し、現場の確認が始まった。管理人は事情を説明し、和也も呼ばれて話を聞かれた。警察官の表情は硬く、和也の顔をじっと見つめる。
「昨夜、北山さんと何かありましたか?」
「いえ……夕食を一緒に食べただけで……」
「夜中に物音などは?」
和也は言葉に詰まった。夢のことを話すべきか迷ったが、そんなことを言えば疑われるだけだ。
「特には……」
警察官はしばらく沈黙し、メモを取った。
「北山さんは、何者かに追われていた形跡があります」
和也の心臓が止まりそうになった。
「追われて……?」
「足跡がありました。北山さんのものと、もうひとつ。だが、途中で消えている」
和也は息を呑んだ。夢の中で追われたときの足音が蘇る。
警察官は続けた。
「ただ、小屋の防犯カメラには、北山さんが“ひとりで”外に出ていく姿が映っていました。昨夜の二十時過ぎです」
和也は言葉を失った。
夢の中で自分が森に立っていた時間と、どこか重なる気がした。
警察官は和也の顔を見つめた。
「あなたは部屋にいた。証拠もある。だから疑ってはいません。ただ……」
「ただ?」
「北山さんが、なぜ夜中に外へ出たのか。それがわからない」
和也は答えられなかった。
だが、胸の奥ではひとつの答えが浮かび上がっていた。
夢が、現実を動かしている。
そうとしか思えなかった。
警察が現場検証を終え、小屋の前で軽く会釈をして去っていったのは、昼を少し過ぎた頃だった。パトカーのエンジン音が遠ざかり、森の静けさが戻ってくる。だが、その静けさは朝のものとは違っていた。何かが抜け落ちたような、空気の密度が変わったような、そんな感覚があった。
和也は小屋の前に立ち、深く息を吐いた。胸の奥に重い石が沈んでいるようだった。北山の死。夢と同じ落下。追われていた形跡。そして、あの囁き声。
――まだだよ。
思い出すたび、背筋が冷たくなる。夢の中で聞いた声が、現実の空気に混じっているような錯覚に襲われる。
「大変でしたね」
背後から管理人の声がした。和也は振り返った。管理人はいつもの柔らかい笑みを浮かべていたが、その目はどこか疲れているように見えた。
「今日はもう休んで、明日の朝に下山するといいですよ。天気も崩れそうですし」
その言葉は優しげだったが、どこか“追い払う”ような響きがあった。
「……はい。そうします」
和也は答えたが、胸の奥に引っかかりが残った。管理人の声は穏やかだが、どこか焦りのようなものが混じっている。北山の死に動揺しているのか、それとも――。
小屋に戻ると、北山の部屋の扉が半開きになっていた。警察が調べたままなのだろう。和也は吸い寄せられるように中を覗いた。
布団は乱れ、床には泥の跡が残っている。昨夜、誰かがここから出ていった。その“誰か”が北山であることは間違いない。だが、泥の跡はひとつではなかった。北山のものとは違う、大きさも形も異なる跡が、床の隅にうっすらと残っていた。
和也は息を呑んだ。
夢の中で聞いた足音。追ってきた“何か”。
その気配が、現実にも滲み出しているようだった。
和也は扉を閉め、廊下に戻った。小屋の中は静かだった。だが、その静けさは不自然だった。まるで小屋全体が息を潜め、何かを隠しているような――そんな圧迫感があった。
昼食をとる気にもなれず、和也はロビーの椅子に座った。薪ストーブの火がぱちぱちと音を立てている。だが、その音すら遠く感じられた。
管理人が台所から出てきて、和也に声をかけた。
「何か飲みますか? お茶でも淹れましょうか」
「……いえ、大丈夫です」
管理人は少しだけ笑った。その笑みは、どこか貼りつけたようだった。
「そうですか。無理しないでくださいね」
そう言って管理人は奥へ戻っていった。だが、和也はその背中を見つめながら、胸の奥に小さな違和感が芽生えるのを感じた。
管理人は、北山の死を悲しんでいるようには見えなかった。
驚いてはいたが、恐れてはいなかった。
まるで、こうなることを知っていたかのように。
和也は立ち上がり、小屋の外に出た。空は薄曇りで、風が冷たい。森の奥から鳥の声が聞こえるが、その声はどこか遠く、薄い。
崖の方へ歩いてみようかと思ったが、足がすくんだ。夢の中で落ちた感覚が蘇り、膝が震えた。
そのとき、小屋の裏手から“コン、コン”という音が聞こえた。薪を割る音だ。管理人だろうか。だが、警察が去ったばかりで、そんな余裕があるだろうか。
和也は小屋の角を曲がり、裏手を覗いた。
そこには誰もいなかった。
薪は積まれたまま、斧も地面に置かれたままだった。風もないのに、斧の柄がわずかに揺れているように見えた。
和也は背筋が冷たくなるのを感じた。
音は確かに聞こえた。だが、誰もいない。
そのとき、背後から管理人の声がした。
「新居見さん、どうかしましたか?」
和也は振り返った。管理人は小屋の入口に立っていた。表情は穏やかだが、目だけが笑っていない。
「いえ……薪を割る音がしたので……」
「薪? 私はずっと中にいましたよ」
管理人はそう言って、ゆっくりと微笑んだ。
その笑みが、なぜか恐ろしく見えた。
和也は小屋に戻りながら、胸の奥にひとつの確信が生まれていくのを感じた。
北山を追っていたのは、人間ではない。
だが――。
管理人もまた、何かを隠している。
その“何か”が、和也の背後にじわりと影を落とし始めていた。
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