同じ夢を見る小屋 第2話
落ちていく――そんな感覚だった。布団の柔らかさも、部屋の空気の冷たさも、すべてが遠ざかり、和也の意識は暗闇の底へと沈んでいった。
眠りに落ちるというより、何かに引きずり込まれるような、抗いようのない力が働いていた。
気づくと、和也は森の中に立っていた。
夜だった。月は雲に隠れ、木々の間にわずかな光が滲むだけで、周囲はほとんど闇に沈んでいる。足元には湿った落ち葉が積もり、踏みしめるたびにじくりと沈む。冷たい空気が肌を刺し、息を吸うと土と苔の匂いが肺に入り込んだ。
ここはどこだ――そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
森は静かすぎた。風が吹いている気配はあるのに、木々は揺れない。葉擦れの音もない。まるで森全体が息を潜め、何かを待っているようだった。
和也は一歩踏み出した。落ち葉がわずかに沈む。その音が、やけに大きく響いた。
その直後、背後で同じ音がした。
和也は振り返った。だが、そこには何もいない。闇が広がるだけだった。木々の影が重なり合い、黒い塊となって揺れているように見える。
気のせいだ――そう思おうとしたが、胸の奥がざわついた。
もう一歩踏み出す。落ち葉が沈む。
また、背後で同じ音がした。
和也は喉が乾くのを感じた。ゆっくりと振り返る。だが、やはり誰もいない。風も吹いていないのに、木々の影だけがわずかに揺れている。
その影が、一瞬だけ“人の形”に見えた。
和也は息を呑んだ。目を凝らすと、影はただの木の幹と枝の重なりに戻っていた。だが、胸の鼓動は速くなるばかりだった。
森の奥から、かすかな音がした。
ザ……ザ……
何かが落ち葉を踏みしめる音。ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。和也は後ずさりした。足が根に引っかかり、バランスを崩しそうになる。
音は止まらない。一定のリズムで、確実に距離を詰めてくる。
和也は声を出そうとしたが、喉が凍りついたように動かなかった。森の冷気が肺に入り込み、身体の芯まで冷たくなる。
そのとき、木々の間に“何か”が立っているのが見えた。
黒い影。人のようで、人ではない。輪郭が揺れ、形が定まらない。まるで闇そのものが立ち上がったような存在だった。
和也は息を呑んだ。影は動かない。ただ、そこに“いる”。
だが、次の瞬間、影はふっと消えた。
和也は目を瞬いた。見間違いかもしれない。だが、胸の奥のざわつきは消えなかった。森の空気が重く、肌にまとわりつくようだった。
和也はゆっくりと後ずさりし、森の奥を見つめた。何もいない。だが、確かに“何か”がいた気配だけが残っている。
そのとき、背後で落ち葉が大きく沈む音がした。
和也は振り返る暇もなく、身体が勝手に走り出していた。足がもつれそうになりながらも、必死に前へ進む。背後から、追ってくる音が聞こえる。足音は和也の速度に合わせて速くなる。
ザッ、ザッ、ザッ――。
和也は息を切らしながら走った。木々の間をすり抜け、枝が頬をかすめる。足元の落ち葉が滑り、何度も転びそうになる。
背後の気配は近い。すぐそこにいる。振り返れば、何かが見えてしまう気がした。だが、振り返る勇気はなかった。
森の奥に、わずかな光が見えた。和也はそこへ向かって走った。光は月明かりだった。木々の隙間から差し込む淡い光が、わずかに道を照らしている。
だが、その光の先に広がっていたのは――。
崖だった。
和也は足を止めようとしたが、勢いがつきすぎていた。足元の落ち葉が滑り、身体が前へ投げ出される。
その瞬間、背後の気配が急に近づいた。
耳元で、風のような声がした。
――まだだよ。
和也の身体は、闇の中へ落ちていった。
落下の感覚は、永遠に続くかと思われた。身体が宙に浮き、重力が消え、世界が反転する。風が耳元を裂くように吹き抜け、視界は闇に溶けていく。だが、その闇の中で、和也は確かに“何か”の気配を感じていた。
落ちているのは自分だけではない。
誰かが、すぐ背後にいる。
その気配は、落下の速度に合わせてついてくる。距離は縮まらないが、離れもしない。まるで和也の背中に張りつき、落下の行方を見守っているかのようだった。
やがて、風の音がふっと消えた。
落下が止まったのだと気づいたとき、和也は地面に叩きつけられた。衝撃はあったが、痛みはなかった。身体が地面に沈み込むような感覚だけが残り、呼吸がうまくできない。
視界がぼやけ、森の匂いが濃くなる。湿った土、腐葉土、苔の匂い。それらが混じり合い、肺の奥まで入り込んでくる。
和也はゆっくりと目を開けた。
そこは、崖下ではなかった。
森の中だった。
だが、前編でいた場所とは違う。木々の形が歪み、枝が不自然な角度で伸びている。まるで森そのものが、和也を囲むように形を変えているようだった。
背後で、落ち葉が沈む音がした。
和也は振り返れなかった。身体が動かない。腕も足も、地面に縫い付けられたように重い。呼吸だけが浅く続き、胸が苦しくなる。
そのとき、耳元で囁きがした。
――まだだよ。
その声は、風のようであり、誰かの声のようでもあった。男か女かもわからない。だが、確かに“こちらを知っている”声だった。
和也は喉を震わせた。声を出そうとしたが、空気が漏れるだけだった。
背後の気配が近づく。落ち葉が沈む音が、ひとつ、またひとつと重なる。ゆっくりと、確実に距離を詰めてくる。
和也は必死に身体を動かそうとした。だが、指先すら動かない。夢だと気づいても、夢の中では逃げられない。そんな理不尽さが、胸を締めつけた。
気配はすぐ背後まで来た。
和也の首筋に、冷たい息が触れた。
その瞬間、視界が白く弾けた。
和也は叫び声を上げて飛び起きた。布団が跳ね、息が荒くなる。胸が激しく上下し、心臓が痛いほど脈打っている。額には冷たい汗がにじみ、手のひらは湿っていた。
部屋は暗い。天井の木目がぼんやりと浮かび上がり、壁の影が揺れている。窓は閉まっている。外は静かだ。
夢だ――そう思った瞬間、胸の奥に残る冷たさが、夢ではないと告げていた。
和也は布団の上でしばらく動けなかった。呼吸を整えようとするが、肺がうまく働かない。夢の中で感じた冷気が、まだ身体の中に残っているようだった。
やがて、廊下の奥で床板が軋む音がした。
和也はびくりと身体を震わせた。夢の続きかと思った。だが、音は現実のものだった。誰かが歩いている。ゆっくりと、確実に。
北山だろうか。管理人だろうか。
それとも――。
足音は和也の部屋の前で止まった。
和也は息を止めた。扉の向こうに、誰かが立っている。気配が、そこにある。だが、扉は開かない。ノブも動かない。ただ、立っているだけだ。
その沈黙が、夢よりも恐ろしかった。
やがて、足音は遠ざかっていった。廊下の奥へ、闇の中へ。音が完全に消えるまで、和也は一度も呼吸をしなかった。
だが、胸の奥には、夢の声がまだ残っていた。
――まだだよ。
和也は布団を握りしめた。
夢は終わっていない。そう確信せざるを得なかった。
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