同じ夢を見る小屋 第1話
山道を踏みしめるたび、湿った土が靴底にまとわりつき、重さが増していくようだった。
三月の山はまだ冬の名残を引きずっており、空気は冷たく、吐く息は白い。新居見和也は肩にかけたリュックの紐を握り直し、前方の木々の隙間に見え隠れする山小屋を目指した。
地図で見たときは簡素な避難小屋のように思えたが、近づくにつれ、どこか人の気配を拒むような静けさが漂っているのがわかった。
小屋は古びていた。外壁の板は灰色に乾き、ところどころ節が抜けている。窓枠は少し歪み、ガラスは薄く曇っていた。
それでも、放置されているわけではない。軒先には新しい薪が積まれ、扉の取っ手は磨かれている。
手入れはされているのに、どこか“人の生活の匂い”が薄い。そんな印象だった。
周囲の空気は妙に静かだった。
鳥の声が遠い。風が吹いているはずなのに、木々の揺れる音がしない。まるで、音そのものが森の奥へ吸い込まれていくようだった。
和也は小さく息を吐き、扉を押した。軋む音が響き、室内の空気が流れ出てくる。薪ストーブの匂いが混じった、乾いた木の香りだった。
「いらっしゃい」
受付のカウンターの奥から、管理人が顔を上げた。五十代ほどの男で、柔らかい笑みを浮かべている。だが、その目だけが笑っていないように見えた。黒目がわずかに揺れ、こちらを測るような視線を投げてくる。
「今日はお二人だけですよ。ゆっくりしていってください」
和也は軽く会釈し、名前を書いて料金を支払った。管理人は丁寧に鍵を渡してくれたが、その手つきはどこかぎこちない。慣れているようで、慣れていない。そんな違和感があった。
奥のテーブルには先客がいた。明るい色のダウンを着た男で、年は和也と同じくらいだろう。彼は気さくそうな笑顔を向けてきた。
「お疲れ。君も泊まり?」
「ええ。新居見です」
「北山。よろしく」
北山は人懐っこい笑顔を浮かべ、軽く手を挙げた。その仕草に緊張が少し和らぐ。山小屋での見知らぬ人との出会いは珍しくないが、こうして気さくに話しかけられると、どこか安心するものだ。
夕食の時間になると、自然と二人で同じ席についた。北山はよく喋る男で、山の話、仕事の愚痴、最近観た映画の話など、話題が途切れない。和也は相槌を打ちながら、温かい味噌汁をすすった。外の冷気で冷えた身体に、汁の熱がじんわりと染み込んでいく。
やがて北山が、ふと思い出したように声を潜めた。
「そういえばさ、この小屋、噂があるんだよ」
和也は箸を止めた。
「噂?」
「奥の部屋で寝るとね、遭難して死ぬ夢を見るんだってさ。で、その夢で死んだやつは、現実でも……って話」
北山は笑いながら言ったが、その笑いはどこか“話を盛っている人間のそれ”ではなかった。妙に具体的で、妙に生々しい。まるで、誰かから直接聞いたか、あるいは――。
「まあ、怪談みたいなもんだよ。山小屋にはよくあるだろ?」
和也は曖昧に笑って返した。だが、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。北山の語り口が、どうにも冗談に聞こえなかった。
夕食を終え、廊下を歩いていると、背後で“コツ、コツ”と足音がした。振り返ると、誰もいない。廊下は薄暗く、壁にかけられたランプの光が揺れているだけだった。
気のせいだ、と自分に言い聞かせて部屋に戻る。荷物を整理し、布団を敷き、窓を少し開ける。夜の森の匂いが流れ込んできた。だが、その闇はどこか“こちらを覗いている”ように感じられた。
窓を閉め、布団に入る。天井の木目が、ふと人の顔のように見えた。目を閉じると、耳元で風のような声がした気がした。
――おいで。
和也は目を開けた。部屋は静かだ。だが、胸の奥に沈むような重さだけが、眠りへと引きずり込んでいった。
和也は布団に横たわりながら、天井の木目をぼんやりと見つめていた。目を閉じればすぐに眠れそうなのに、胸の奥に沈んだ重さが、眠りの入口で足を掴んで離さない。外は完全に夜の気配に包まれ、窓の向こうの闇は、まるで深い井戸の底のように静まり返っている。
小屋のどこかで、床板がきしむ音がした。
古い建物なのだから、木が鳴るのは当然だ。そう思おうとしたが、その音は“歩く”というより、“何かが這う”ような湿った響きだった。ゆっくりと、重さを引きずるように、廊下の奥から近づいてくる。
和也は息を止めた。耳を澄ますと、音はぴたりと止んだ。
気のせいだ。疲れているだけだ。そう言い聞かせるたび、胸の奥の棘がわずかに疼く。北山の話が頭を離れない。遭難して死ぬ夢。夢で死んだ者は現実でも――。
そんな馬鹿な、と心の中で笑おうとしたが、喉が乾いて声にならなかった。
隣の部屋から、布団が擦れるような音がした。北山の部屋だ。寝返りを打ったのだろうか。だが、その音は一度では終わらなかった。布団がずるりと引きずられ、床に落ちるような気配が続く。
和也は身体を固くした。耳を澄ますと、音はまた止んだ。
静寂が戻る。だが、その静けさは自然なものではなかった。まるで小屋全体が息を潜め、何かを待っているような――そんな圧迫感があった。
窓の外で、風が吹いたような音がした。だが、木々は揺れていない。風の音にしては近すぎる。窓のすぐ外で、誰かが息を吸い込んだような気配だった。
背中に冷たい汗が流れた。
和也は布団を握りしめ、目を閉じた。瞼の裏に、北山の笑顔が浮かぶ。あのときの笑い声。だが、その笑いの奥に、どこか影があったような気がする。あれは本当に冗談だったのか。
そのとき、耳元で囁くような声がした。
――おいで。
和也は反射的に目を開けた。部屋は暗い。天井の木目がぼんやりと浮かび上がり、壁の影が揺れている。誰もいない。窓も閉まっている。だが、声は確かに耳元で聞こえた。
心臓が速く打ち、喉がひりつく。身体を起こそうとしたが、腕が重い。まるで布団の中に沈んでいくようだった。
再び、床板が軋む音がした。今度は、はっきりと廊下の奥から聞こえる。ゆっくりと、確実にこちらへ近づいてくる。
和也は布団の中で息を潜めた。足音は止まらない。廊下の中央あたりで一度止まり、また動き出す。誰かが歩いている。だが、管理人はもう寝ているはずだ。北山も。
足音は和也の部屋の前で止まった。
和也は喉が凍りつくのを感じた。扉の向こうに、誰かが立っている。気配が、そこにある。だが、扉は開かない。ノブも動かない。ただ、立っているだけだ。
その沈黙が、逆に恐ろしかった。
やがて、足音はゆっくりと遠ざかっていった。廊下の奥へ、闇の中へ。音が完全に消えるまで、和也は一度も呼吸をしなかった。
静寂が戻る。だが、胸の鼓動だけが異様に大きく響いている。
和也は布団の中で震えながら、目を閉じた。眠りたくない。だが、瞼は重く、意識は暗闇に引きずられていく。まるで底の見えない深い穴に落ちていくような感覚だった。
最後に聞こえたのは、窓の外で木々が揺れる音――ではなかった。
それは、誰かが窓のすぐ外で、ゆっくりと息を吐く音だった。
――まだだよ。
囁きが、闇の底から響いた。
和也の意識は、その声に引きずられるようにして、深い眠りへと落ちていった。
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