蔵に眠る毛 最終話
どれくらいの時間が過ぎたのか分からなかった。暗闇の中で、意識だけが残っていた。
身体の感覚はほとんどなかったが、頭皮の奥から何かが伸び続けている感覚だけは消えなかった。
それはゆっくりと、だが確実に外へ向かって伸び、桶の内側に触れ、そこにある無数の毛と絡み合った。絡まるたびに、自分という輪郭が削られていく気がした。自分はここにいるのに、自分だけではなくなっていく。そんな矛盾した感覚があった。
最初は恐怖だった。自分が失われていくことが怖かった。考えることをやめれば楽になるのではないかと思った。だが意識は消えてくれなかった。むしろはっきりしていった。
ここにいると、自分が何なのかを考え続けてしまう。自分は人間だったのか。それとも、この毛の一部だったのか。分からなくなっていった。
だが、完全に分からなくなる瞬間が、少しだけ救いのようにも思えた。もう悩まなくて済むからだった。
祖父のことを思い出した。
祖父も、ここで同じように考えていたのだろうか。俺を見た時、祖父はどんな気持ちだったのだろうか。申し訳ないと思っていたのか。それとも、安堵していたのか。思い出そうとしても、祖父の最後の表情は曖昧だった。
ただ、静かだったことだけは覚えていた。その静けさが、今なら分かる気がした。抵抗しても意味がないと知っていた静けさだった。
やがて、音がした。木が擦れる音だった。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に何かが生まれた。期待だったのかもしれない。恐怖だったのかもしれない。
分からなかった。ただ、終わりではないと直感した。
蓋がゆっくりと開いた。
細い光が差し込んだ。その光を見た瞬間、懐かしさと同時に、激しい羨望が込み上げた。
外だと思った。まだ外があるのだと思った。戻りたいと思った。思ってしまった。その瞬間、自分がまだ完全にはここに馴染んでいないことを思い知らされた。
覗いていたのは、知らない男だった。若い男だった。男は桶の中を見て、顔をしかめた。
「なんだ、これ」
その声を聞いた瞬間、胸がざわついた。その無知が、かつての自分と重なった。何も知らず、ただ気味悪がっていた頃の自分だった。男は身を乗り出した。
逃げろ、と思った。来るな、と思った。だが同時に、別の感情があった。見ろ、と思った。気づけ、と思った。
そして、ここへ来い、と思ってしまった。その感情に気づいた瞬間、自分が恐ろしくなった。俺は助けたいのか。それとも、代わりが欲しいのか。分からなかった。だが、どちらも本当だった。
男は一本の毛を摘み上げた。
「長いな」
引かれた瞬間、頭皮の奥に感覚が走った。繋がっている、と思った。その感覚に、安心している自分がいた。完全に切り離されたわけではないと感じて、安心していた。
そのことが、何よりも恐ろしかった。ここにいながら、ここにいることを受け入れ始めている自分がいた。
男の後ろに、もう一人立っていた。俺だった。外に出た俺だった。
それを見た瞬間、理解した。あれが俺なのだと。
そして同時に、あれはもう俺ではないとも理解した。外の俺は、感情のない目で中を見ていた。その目を見ていると、不思議と腹が立った。
なぜそんな目で見ていられるのかと思った。なぜ平気で立っていられるのかと思った。だが、その感情はすぐに消えた。
気づいたからだった。あれは未来の俺ではなく、今の俺の結果なのだと。ああなったのは、自分自身なのだと。
「開けるな」
外の俺が言った。
その言葉を聞いた瞬間、笑いそうになった。止める気などないと分かっていたからだった。ただの形だけの言葉だった。
祖父もそうだった。
ただ言っただけだった。止めなかった。止められなかったのではなかった。止めなかったのだった。
男は桶を覗き込んだままだった。
「気味が悪いな」
その言葉に、奇妙な安堵を覚えた。まだ戻れる場所にいる言葉だった。まだこちら側ではない言葉だった。
男はやがて蓋を閉めた。
光が消えた。暗闇が戻った。
その瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。失ったのだと思った。
だが、何を失ったのかは分からなかった。希望だったのかもしれない。だが同時に、別の感覚もあった。繋がった、という感覚だった。
あの男と、ここが繋がったと分かった。逃げられないと分かった。
そして、そのことに安心している自分がいた。もう一人ではないと思ったからだった。
その感情に気づいた瞬間、自分が完全にこちら側になったのだと理解した。
暗闇の中で、また一本、毛が伸びた。それは静かに絡まり、境界を失った。やがてあの男は戻ってくる。恐怖しながら。否定しながら。
そして最後には、諦めながら。
その時、自分は何を思うのだろうと思った。助けたいと思うのか。それとも。ようやく来た、と安心するのか。考えたくなかった。だが、もう分かっていた。きっと、安心するのだと。それが何よりも恐ろしかった。
暗闇の中で、俺は待っていた。次が来るのを。
ずっと。
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