蔵に眠る毛 第3話
その日から、俺は蔵の前を通るたびに足を止めるようになった。自分の意思ではなかった。気がつくと立っているのだ。
扉の向こうに何かがいると分かっていた。そしてそれは、外へ出ようとしているとも分かっていた。
頭皮の奥の感覚はさらに強くなっていた。ときどき、はっきりと「引かれる」感覚があった。外ではなく、内側へ。蔵の中へ向かって。
鏡を見るのが怖くなった。だが確認せずにはいられなかった。白い毛はさらに増えていた。黒い毛より多くなり始めていた。そして気づいた。白い毛は、根元が妙に深かった。皮膚の表面から生えているのではなく、もっと奥から伸びているように見えた。
その夜、母が言った。
「そろそろね」
意味は分かっていた。
「何が」
そう聞くと、母は静かに答えた。
「会うのよ」
誰に、とは聞かなかった。
夜中、目が覚めた。理由は分からなかった。だが、起きなければならないと分かっていた。体が勝手に動いた。布団を出て、部屋を出て、廊下を歩いた。止まれなかった。蔵の前まで来た。扉は閉まっていた。
だが、開いていた。わずかに隙間があった。俺はそれを見ていた。中から、気配が漏れていた。誰かがいる。ゆっくりと扉を開けた。蔵の中は暗かった。だが、奥に人が立っていた。桶の前に。白い髪の後ろ姿だった。この痩せた背中に見覚えがあった。
祖父だった。
ありえないと思った。先日祖父は死んだ。それでも、そこにいた。
「じいちゃん」
声が出た。祖父は、ゆっくりと振り向いた。その顔を見た瞬間、呼吸が止まった。祖父だった。だが、違ったら、
皮膚は生気がなく、目だけが妙に濡れていた。
祖父は俺を見て、微かに笑った。
「来たか」
その声は、生きていた頃と同じだった。
「どうして」
祖父は答えなかった。代わりに、桶に手をかけて、蓋を撫でた。
「もうすぐだ」
何が、とは言わなかった。だが分かった。祖父は、外にいる。それなら、中にいるのは、誰だ。
その時、桶の中で。強く音がした。内側から叩いたような音だった。
祖父は言った。
「安心しろ」
そして。
「次は、お前だ」
頭皮の奥で、何かが引き抜かれた。
引き抜かれる感覚は、痛みではなかった。鋭さも熱もなかった。ただ、内側に根を張っていたものが、ゆっくりとほどかれていくような感覚だった。
頭の奥の深い場所から、細い糸が一本ずつ引き出されていく。そのたびに、何かが軽くなり、同時に空洞が広がっていくのが分かった。
立っているはずなのに、足の裏の感覚が薄れていく。祖父は桶の横に立ち、その様子を静かに見ていた。
「怖がることはない」
祖父の声は穏やかだった。昔、熱を出した夜に布団の横で聞いた声と同じだった。
「すぐに慣れる」
何に慣れるのかは言わなかった。
桶の中から、音がした。擦れる音だった。乾いた木に、柔らかいものが触れている音だった。耳を澄ますと、それは一つではなかった。いくつも重なっていた。小さく、絶え間なく続いていた。まるで中にいる何かが、絶えず位置を変え続けているようだった。
祖父は桶の蓋に手を置いた。
「ここはな、終わりじゃない」
そして、少しだけ笑った。
「繋がる場所だ」
頭皮の奥で、また強く引かれた。体が前に傾いた。膝が勝手に進んだ。止まれなかった。桶の縁に手をついた。中を覗き込んだ。暗闇の底で、白いものが揺れていた。毛だった。無数だった。
長さも太さも違う毛が絡み合い、一つの塊のようになっていた。それは生き物の巣に見えた。ゆっくりと呼吸するように、わずかに動いていた。
その中心に、空間があった。中は空洞だった。座るための形をしていて、最初から用意されていたかのように。
「そこがお前の場所だ」
祖父が言った。
違う、と言いたかった。だが、口は動かなかった。代わりに、体が動いた。縁を越えた。足が中に入った。毛が触れた。冷たかった。だが、触れた瞬間、それらはわずかに動き、俺の足を受け入れるように沈んだ。
座る。自然に、そうしていた。膝を抱えた。ぴったりと収まった。その瞬間、分かった。ここは、俺の形を覚えていた。
外から祖父が俺を見下ろしていた。その目には、かすかな羨望の色があった。
「すぐに分かる」
祖父はそう言った。何が、とは聞かなかった。
蓋が動いた。ゆっくりと閉まり始めた。
「待ってくれ」
声が出た。祖父の動きは止まらなかった。隙間が狭くなっていく。光が細くなっていく。最後に見えた祖父の顔は、安堵していた。完全に閉まった。
闇になり、音が消えた。時間が消えた。どれくらい経ったのか分からなかった。だが、やがて変化が始まった。
頭皮の奥から、今度は逆に、何かが伸びていった。内側から外へ向かって。皮膚を押し、空気へ向かって伸びた。それは桶の内側に触れた。触れた瞬間、理解した。それは毛だった。俺の毛だった。
一本ではなかった。何本も伸びた。
桶の内側に触れた瞬間、それらは絡みついた。周囲にあった無数の毛と、自然に混ざり合った。区別がつかなくなった。
その時、初めて理解した。ここにある毛は、すべて「誰か」だった。失われたものではなかった。残されたものだった。やがて、音がした。上で、蓋が開いた。光が差し込んだ。眩しくはなかった。懐かしかった。誰かが覗いていた。若い男だった。見覚えがあった。俺だった。
外にいる俺だった。外の俺は、中の俺を見ていた。表情はなかった。感情もなかった。ただ、確認していた。そして、口を開いた。
「そうか」
その声は、俺の声だった。だが、わずかに違った。祖父の響きが混じっていた。
「これで、いい」
外の俺は、ゆっくりと頷いた。
その目は、もう俺を俺として見ていなかった。
役目として見ていた。外の俺の髪は、黒かった。一本も白い毛はなかった。すべて、ここにあった。外の俺は、最後に言った。
「まだ、続く」
蓋が閉まり始めた。
細くなる光の中で、外の俺の頭がわずかに揺れた。
その黒い髪の奥で。一本だけ。白い毛が。伸び始めていた。
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