蔵に眠る毛 第2話
桶の前に立った瞬間、胸の奥がざわついた。開けてはいけないという思いと、開けなければならないという思いが同時に存在していた。
視線は自然と蓋に吸い寄せられていた。
木の表面は変わらず古びているのに、前よりも湿って見えた。まるで内側から水分が滲んでいるようだった。
俺は無意識のうちに手を伸ばしていた。指先が蓋の縁に触れた瞬間、微かな震えが腕を伝った。自分が震えているのか、それとも桶が震えているのか分からなかった。
蓋を持ち上げた。前よりも軽く感じた。隙間が開き、中が見えた。白い毛があった。
一本ではなかった。十本以上あった。
桶の底に散らばっていた。それぞれがゆるやかに曲がり、絡み合っていた。その光景を見た瞬間、息が止まった。確実に増えていた。昨日見た時は一本だけだったはずだった。
その時だった。一本の毛が、ゆっくりと動いた。風はなかった。それでも、確かに動いた。まるで生きているように、わずかに位置を変えた。
思わず蓋を閉めた。心臓が激しく脈打っていた。耳の奥で自分の鼓動が響いていた。ありえないと思った。だが、目は嘘をついていなかった。
その時、背後で床が軋んだ。振り返ると、母が立っていた。
「……見たのね」
母は静かに言った。
俺は何も答えられなかった。
「おじいちゃんも、同じだった」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「何が」
母は少しの間黙り、それから言った。
「最初は一本だけだったのよ」
背中に冷たいものが走った。
「やめろよ、そういう冗談」
「冗談じゃない」
母の声には感情がなかった。
「毎日、少しずつ増えた。枕に落ちるようになって、自分の髪が減っていった」
俺は何も言えなかった。
「そして、ある日」
母は桶を見た。
「黒い毛が混じった」
呼吸が止まった。
「それがおじいちゃんの毛だった」
蔵の空気が急に重くなった気がした。
「どういう意味だよ」
母は俺を見た。
「移るのよ」
その言葉は理解できたのに、意味は理解できなかった。
「桶の中にある毛は、次の人の毛。そして、桶の中に入った人の毛は、外に出る」
頭の中で言葉がうまく繋がらなかった。
「おじいちゃんは、最後、自分で蓋を閉めた」
母は震えていなかった。
「そして次の日、普通に外にいた」
沈黙が落ちた。
「でも」
母は続けた。
「蔵の中にも、いたのよ」
意味が分からなかった。
「同じ人が、二人いたの」
理解したくなかった。
その時、桶の中で、音がした。擦れる音だった。ゆっくりと、何かが動いていた。
俺は動けなかった。視線を逸らすこともできなかった。母が小さく言った。
「もう、始まってる」
その言葉を聞いた瞬間、頭皮の奥で何かが蠢いた。
内側から。何かが伸びた。
その感覚は、痛みではなかった。だが、はっきりと異物だった。頭皮の奥、骨のすぐ下を、細い何かがゆっくりと這っていた。皮膚の裏側をなぞるように動き、出口を探しているようだった。思わず頭を押さえた。
「何かおかしい」
声に出した瞬間、それが現実のものとして固定されてしまった気がした。母は桶を見つめたまま、静かに言った。
「最初は、みんなそう言うのよ」
みんな。その言葉が引っかかった。
「みんなって、何だよ」
母は少しだけ視線を動かし、俺を見た。
「この家の人間」
蔵の空気が、さらに重くなった。
「おじいちゃんも、その前のおじいちゃんも」
そこまで言ってから、母は言葉を切った。
「そして今は」
続きを聞きたくなかった。だが、聞かなくても分かってしまった。
桶の中から、また音がした。さっきよりもはっきりとした擦れる音だった。複数の細いものが、ゆっくりと動いているような音だった。蓋は閉まっているのに、内側の気配だけが伝わってきた。
頭皮の奥の違和感が強くなった。思わず爪を立てたくなった。掻きむしれば止まる気がした。だが、触れてはいけないと本能が告げていた。
「どうすればいい」
俺は母に聞いた。母は答えなかった。ただ、ぽつりと言った。
「止めることはできない」
その言葉は静かだったが、重かった。
「じゃあ、どうなるんだよ」
母は少し考え、それから言った。
「増える」
何が、とは聞かなかった。分かっていた。
その日の夜、眠るのが怖かった。だが、眠らないわけにもいかなかった。布団に入り、目を閉じた。しばらくして、意識が沈んでいった。
また夢を見た。暗い場所だった。もう分かっていた。
桶の中だった。
前よりもはっきりと分かった。木の内側の感触が背中にあった。湿った匂いが鼻を満たしていた。膝を抱えて座っていた。
そして、目の前に隙間があった。外から光が差して、その隙間から誰かが覗いていた。その顔が、少しずつ見えた。
俺だった。
今の俺だった。外に立ち、桶の中の俺を見下ろしていた。表情はなく、ただ観察していた。
「まだ、足りない」
声が聞こえた。
外の俺の口が動いていた。
目が覚めた瞬間、激しく息を吸った。全身が汗で濡れていた。すぐに頭に手をやった。指に触れた感触で、凍りついた。
白い毛がまた増えていた。明らかに増えていた。昨日までは数本だった。今は、指の間に何本も触れた。
震える手で鏡を見た。こめかみだけではなかった。頭頂部にも、後頭部にも、白い毛が混じっていた。
その中に。一本だけ。異様に長い毛があった。
それは、桶の中で見た長さと同じだった。
その瞬間、理解した。これは白髪じゃない。
これは、あそこから。来ている。
背後で、床が軋んだ気がした。振り返った。誰もいなかった。だが、見られていると分かった。
蔵の方から、確実に。
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