表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホラー短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/29

蔵に眠る毛 第2話

 桶の前に立った瞬間、胸の奥がざわついた。開けてはいけないという思いと、開けなければならないという思いが同時に存在していた。

 視線は自然と蓋に吸い寄せられていた。

 木の表面は変わらず古びているのに、前よりも湿って見えた。まるで内側から水分が滲んでいるようだった。

 俺は無意識のうちに手を伸ばしていた。指先が蓋の縁に触れた瞬間、微かな震えが腕を伝った。自分が震えているのか、それとも桶が震えているのか分からなかった。


 蓋を持ち上げた。前よりも軽く感じた。隙間が開き、中が見えた。白い毛があった。

 一本ではなかった。十本以上あった。


 桶の底に散らばっていた。それぞれがゆるやかに曲がり、絡み合っていた。その光景を見た瞬間、息が止まった。確実に増えていた。昨日見た時は一本だけだったはずだった。


 その時だった。一本の毛が、ゆっくりと動いた。風はなかった。それでも、確かに動いた。まるで生きているように、わずかに位置を変えた。


 思わず蓋を閉めた。心臓が激しく脈打っていた。耳の奥で自分の鼓動が響いていた。ありえないと思った。だが、目は嘘をついていなかった。


 その時、背後で床が軋んだ。振り返ると、母が立っていた。


「……見たのね」


 母は静かに言った。

 俺は何も答えられなかった。


「おじいちゃんも、同じだった」


 その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「何が」


 母は少しの間黙り、それから言った。


「最初は一本だけだったのよ」


 背中に冷たいものが走った。


「やめろよ、そういう冗談」


「冗談じゃない」


 母の声には感情がなかった。


「毎日、少しずつ増えた。枕に落ちるようになって、自分の髪が減っていった」


 俺は何も言えなかった。


「そして、ある日」


 母は桶を見た。


「黒い毛が混じった」


 呼吸が止まった。


「それがおじいちゃんの毛だった」


 蔵の空気が急に重くなった気がした。


「どういう意味だよ」


 母は俺を見た。


「移るのよ」


 その言葉は理解できたのに、意味は理解できなかった。


「桶の中にある毛は、次の人の毛。そして、桶の中に入った人の毛は、外に出る」


 頭の中で言葉がうまく繋がらなかった。


「おじいちゃんは、最後、自分で蓋を閉めた」


 母は震えていなかった。


「そして次の日、普通に外にいた」


 沈黙が落ちた。


「でも」


 母は続けた。


「蔵の中にも、いたのよ」


 意味が分からなかった。


「同じ人が、二人いたの」


 理解したくなかった。


 その時、桶の中で、音がした。擦れる音だった。ゆっくりと、何かが動いていた。


 俺は動けなかった。視線を逸らすこともできなかった。母が小さく言った。


「もう、始まってる」


 その言葉を聞いた瞬間、頭皮の奥で何かが蠢いた。


 内側から。何かが伸びた。


 その感覚は、痛みではなかった。だが、はっきりと異物だった。頭皮の奥、骨のすぐ下を、細い何かがゆっくりと這っていた。皮膚の裏側をなぞるように動き、出口を探しているようだった。思わず頭を押さえた。


「何かおかしい」


 声に出した瞬間、それが現実のものとして固定されてしまった気がした。母は桶を見つめたまま、静かに言った。


「最初は、みんなそう言うのよ」


 みんな。その言葉が引っかかった。


「みんなって、何だよ」


 母は少しだけ視線を動かし、俺を見た。


「この家の人間」


 蔵の空気が、さらに重くなった。


「おじいちゃんも、その前のおじいちゃんも」


 そこまで言ってから、母は言葉を切った。


「そして今は」


 続きを聞きたくなかった。だが、聞かなくても分かってしまった。


 桶の中から、また音がした。さっきよりもはっきりとした擦れる音だった。複数の細いものが、ゆっくりと動いているような音だった。蓋は閉まっているのに、内側の気配だけが伝わってきた。


 頭皮の奥の違和感が強くなった。思わず爪を立てたくなった。掻きむしれば止まる気がした。だが、触れてはいけないと本能が告げていた。


「どうすればいい」


 俺は母に聞いた。母は答えなかった。ただ、ぽつりと言った。


「止めることはできない」


 その言葉は静かだったが、重かった。


「じゃあ、どうなるんだよ」


 母は少し考え、それから言った。


「増える」


 何が、とは聞かなかった。分かっていた。


 その日の夜、眠るのが怖かった。だが、眠らないわけにもいかなかった。布団に入り、目を閉じた。しばらくして、意識が沈んでいった。


 また夢を見た。暗い場所だった。もう分かっていた。

 

 桶の中だった。


 前よりもはっきりと分かった。木の内側の感触が背中にあった。湿った匂いが鼻を満たしていた。膝を抱えて座っていた。


 そして、目の前に隙間があった。外から光が差して、その隙間から誰かが覗いていた。その顔が、少しずつ見えた。

 

 俺だった。


 今の俺だった。外に立ち、桶の中の俺を見下ろしていた。表情はなく、ただ観察していた。


「まだ、足りない」


 声が聞こえた。

 外の俺の口が動いていた。


 目が覚めた瞬間、激しく息を吸った。全身が汗で濡れていた。すぐに頭に手をやった。指に触れた感触で、凍りついた。


 白い毛がまた増えていた。明らかに増えていた。昨日までは数本だった。今は、指の間に何本も触れた。


 震える手で鏡を見た。こめかみだけではなかった。頭頂部にも、後頭部にも、白い毛が混じっていた。


 その中に。一本だけ。異様に長い毛があった。


 それは、桶の中で見た長さと同じだった。


 その瞬間、理解した。これは白髪じゃない。


 これは、あそこから。来ている。

 背後で、床が軋んだ気がした。振り返った。誰もいなかった。だが、見られていると分かった。


 蔵の方から、確実に。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ