蔵に眠る毛 第1話
祖父が死んで三日後、俺は母の実家の蔵の中にいた。海沿いの古い木造の家で、柱は潮風に削られ、瓦は黒ずんでいた。
葬式は静かだった。祖父は九十二まで生きたが、最後まで妙に意識だけははっきりしていて、俺の顔を見るたび同じ言葉を繰り返していた。
「蔵を開けるな」
それが祖父の最後の言葉だった。母は困ったように笑い、
「昔から変わったことを言う人だったのよ」
と言ったが、その目は笑っていなかった。
それでも俺が蔵を開けているのは、母に頼まれたからだった。中の古い農具や桶を処分するため、業者を呼ぶ前に確認してほしいと言われたのだ。母は蔵に入るのを嫌がり、
「暗いし、埃がすごいから」
とだけ言って中を見ようとしなかった。
蔵の中は昼間でも暗く、湿った空気が肌にまとわりついた。壁際には古い農具が並び、奥へ進むと問題の桶があった。麻桶だった。
子供の頃、祖父がこれで麻を蒸していた記憶がある。大人の腰ほどの高さがあり、分厚い木でできていて、鉄の輪が胴を締めていた。そして蓋があった。不自然なほど隙間なく閉じられていた。それを見た瞬間、昔の記憶が蘇った。
七歳の頃、好奇心でこの蓋を開けようとしたことがあった。その時、祖父は血相を変えて駆け寄り、俺の手を強く叩いた。
「開けるな!」
怒鳴るというより、怯えていた。
その後、祖父はすぐに謝ったが、それ以来、蔵に近づくことを禁じた。その桶の前に、今、俺は立っている。祖父はもういない。止める者はいなかった。俺は桶に手を伸ばした。木の表面は冷たく、下の方だけわずかに湿っていた。
その時、背後で何かが動いた気がして振り返ったが、誰もいなかった。
気のせいだと思い直し、蓋の縁に指をかけた。重かったが、力を込めるとゆっくり持ち上がった。暗い隙間ができ、中を覗き込んだ。最初は何も見えなかったが、目が慣れるとそれが見えた。白い毛だった。一本だけ、桶の底に落ちていた。三十センチ以上ある長い毛だった。祖父の髪の長さに似ていた。
なぜこんなところにあるのかと思った瞬間、その毛がわずかに揺れた気がした。風はなかった。それでも確かに動いたように見えた。反射的に蓋を閉めた。心臓が速くなっていた。
今のは見間違いだと思おうとしたが、どうしても気になった。蔵を出ようとした時、入口に母が立っていた。
「どうだった?」
俺は少し迷ったが、
「何もない。ただの古い桶だ」
と答えた。母は中を見ようとはせず、安心したように息を吐き、
「じゃあ処分してもらいましょう」
と言った。
その言葉を聞いた瞬間、強い違和感が胸に生まれた。
処分してはいけない、となぜか思った。理由は分からないが、そうしなければならない気がした。
「いや、あれは残そう」
母は驚いた顔をした。
「どうして?」
俺は答えられなかった。ただ、
「なんとなく、残した方がいい気がする」
と言うと、母はしばらく黙り、
「……そう」
とだけ言った。その目には、わずかな諦めの色があった。その夜、俺は自分の部屋で眠った。
久しぶりの部屋だったが、不思議と懐かしさはなかった。夜中、首筋に違和感を覚えて目を覚ました。何かが触れていた。
指で摘み、明かりをつけて見た。
白い毛だった。
長く、細く、昼間桶の中で見たものと同じだった。俺はしばらくそれを見つめていたが、やがて窓を開けて外へ捨てた。
しかし、布団に戻っても眠ることはできなかった。胸の奥に、小さな不安が残り続けていた。
翌朝、目が覚めた瞬間、昨夜のことを思い出した。
枕元を確認したが、もう白い毛はなかった。風で飛んでいったのだろうと思おうとしたが、胸の奥に残る感覚は消えなかった。
ただの毛一本にここまで神経質になる自分が馬鹿らしくもあった。顔を洗うため洗面所に行き、鏡を見た時、違和感に気づいた。こめかみのあたりに白いものが混じっていた。顔を近づけてよく見ると、それは白髪だった。一本だけだったが、昨日まではなかったはずだった。指でつまみ、抜こうとしたが、なぜか指が止まった。その毛は妙に存在感があり、抜いてはいけないもののように思えた。結局、そのままにした。
朝食の席で、母は普段通りに味噌汁を出したが、俺の顔を見て一瞬だけ視線を止めた。
「どうかしたの」
そう聞くと、母はすぐに目を逸らし、
「いいえ」
とだけ答えた。その態度が気になったが、それ以上は何も言わなかった。
その日、俺は蔵に近づかないようにしていた。理由は自分でもはっきりしなかった。ただ、あの桶を見てはいけない気がしていた。だが、見られているような感覚だけが一日中つきまとった。家の中にいても、庭に出ても、背後に視線を感じた。振り返っても誰もいなかった。
夜になり、布団に入った。疲れていたはずなのに、なかなか眠れなかった。何度も寝返りを打ち、ようやく意識が途切れた。
夢を見た。
暗い場所だった。周囲は木の壁に囲まれていた。狭く、湿っていた。自分はその中に座っていた。膝を抱え、前を見ていた。目の前には、細い隙間があった。そこから光が差し込んでいた。誰かが外に立っていた。顔は見えなかったが、確かにこちらを覗いていた。
「まだ、足りない」
声が聞こえた。それが誰の声なのか分かった。祖父の声だった。
目が覚めた瞬間、自分の口がわずかに動いていることに気づいた。今の言葉を、自分が言っていたような気がした。嫌な汗が背中に滲んでいた。
明かりをつけた時、枕の上に白い毛があった。
一 本ではなかった。
三本あった。
昨日捨てたはずなのに、また現れていた。拾い上げると、どれも同じ長さだった。指に絡みつく感触が生々しかった。すぐに立ち上がり、窓を開けて外に投げ捨てた。今度こそ終わりにしたかった。
だが、次の瞬間、強い既視感に襲われた。
昨日も同じことをした。それでも、今ここにある。その事実が、説明できない恐怖を生んだ。
それから毎晩、白い毛は増えた。三本が五本になり、五本が七本になった。部屋の床にも落ちるようになった。気づけば机の上にもあった。どこから来ているのか分からなかった。
そして、同時に、自分の髪が減り始めていた。
風呂で髪を洗うと、排水口に黒い毛が目立つようになった。明らかに量が増えていた。鏡を見ると、分け目の地肌が以前より見えていた。代わりに、白髪が増えていた。
ある朝、洗面所で鏡を見ている時だった。こめかみの白髪がまた増えていた。昨日まで一本だったはずなのに、今日は三本に増えていた。顔を近づけて見ていると、そのうちの一本が、わずかに動いた気がした。目を疑った。じっと見つめた。すると、その白い毛は、根元からゆっくりと伸びた。皮膚の内側から押し出されるように、ほんのわずかに長くなった。
思わず後ずさった。呼吸が乱れた。そんなはずはないと思った。だが、確かに見た。その毛は、自分の中から出てきていた。その瞬間、頭の中に、あの桶の映像が浮かんだ。
暗い底。一本の白い毛。そして、それを覗き込んでいた、自分。
気づいた時には、俺は蔵の前に立っていた。行くつもりはなかった。だが、足が勝手にここまで来ていた。扉に手をかけた。開けてはいけないと分かっていた。それでも、確かめなければならなかった。
ゆっくりと扉を開けた。蔵の奥に、あの桶はあった。そして、その瞬間、はっきりと分かった。中の「量」が増えていると。
俺は、桶に近づいた。
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