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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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銅裏駅 最終話

 銅裏駅から戻って三日目、霧は出なかった。


 山間部の空は澄み、線路は乾き、風は一定の向きで吹いている。何事もなかったかのような日常。だが、その穏やかさが、かえって不自然だった。あの駅は、気象条件だけで現れるわけではない。もっと別の何か――内側の揺らぎに反応している気がしてならない。


 「……17:04」


 詰所の壁時計を見上げながら、無意識に呟く。


 銅裏駅の時刻表に記されていた唯一の数字。あれは列車の到着時刻だったのか。それとも、別の意味を持つ刻印だったのか。


 父の事故報告書を、もう一度読み返した。


 発生時刻は、17時04分。


 紙の上の数字が、急に重みを持つ。


 「……そういうことか」


 喉の奥が、ひりつく。

 あの駅は、事故の記憶と結びついている。未練と後悔が、霧を呼ぶ。銅裏駅は、時間に縫い止められている。


 ならば。


 今日、17:04に山間部を通過するダイヤは――自分だ。


 偶然とは思えなかった。

 誰かが仕組んだのではない。ただ、流れがそこへ収束している。


 運転席に座ると、いつもより呼吸が浅いことに気づく。ポケットのボタンは、静かだ。冷たいまま、存在を主張している。


 「……今日は、逃げない」


 声に出すと、不思議と恐怖が整う。

 あの駅は、死者の側だけの場所ではない。生者が、向き合うための場所でもある。


 列車は定刻に発車した。

 市街地を抜け、徐々に山へ近づく。太陽は傾き、空が橙に染まる。17時を過ぎる。


 空気が、変わった。


 霧は、まだ出ていない。だが、温度がわずかに下がる。耳鳴りのような、低い振動が足元から伝わる。


 時計が、17:03を示す。


 「……来い」


 挑むように呟いた瞬間、視界の端が白んだ。


 霧が、線路をなぞるように現れる。急激ではない。ゆっくりと、だが確実に濃度を増す。まるで、時間を守るように。


 17:04。


 秒針が、数字を跨ぐ。


 前方に、影が現れた。


 トンネル。


 今度は、迷いがなかった。


 ブレーキをかけない。速度も落とさない。規定の範囲内で、まっすぐに進む。逃げるのではなく、通過するために。


 闇に入る瞬間、心臓が強く脈打った。


 「……父さん」


 名を呼ぶ。


 返事はない。だが、確かに、向こう側にいる。


 トンネルの闇が、ゆっくりとほどける。


 その先に待つのは、銅裏駅。


 だが、今日は違う気配があった。


 ホームの奥に、もう一つの影が立っている。顔のない乗客たちとは違う、明確な輪郭。背筋を伸ばし、こちらを待っている。


 列車が停止する。


 ドアが開く。


 霧の向こうで、その影が一歩前に出た。


 父ではない。


 それでも、どこか似ている。


 「……誰だ」


 問いかけた瞬間、胸の奥に、鈍い痛みが走った。


 理解が、先に来る。


 それは、父を失った日の、自分だ。


 後悔に囚われ、何もできなかった、自分の影。


 銅裏駅は、死者の未練だけでなく、生者の後悔も集める。


 17:04は、父の死の時刻であり、自分が立ち止まった時間でもあった。


 霧が、二つの影を包む。


 列車のエンジン音が、遠のいていく。


 選ぶのは、もう一度、今だ。


 ホームに立つ“自分”は、何も言わなかった。


 顔はある。だが、表情がない。あの日の記憶の中に固定された、硬直したままの自分。父の事故を知らされた直後、何も理解できず、ただ立ち尽くしていた青年。


 「……まだ、そこにいるのか」


 問いかけると、影はゆっくりと首を傾けた。


 銅裏駅は、死者を集める場所ではない。未練と後悔、そのどちらもが、霧を濃くする。父は山へ向かった。だが、自分は違う。自分の一部だけが、この駅に縫い止められている。


 17:04。


 父が命を落とした時刻。

 そして、自分が時間を止めた瞬間。


 「……動け」


 低く、言い聞かせる。


 あの日から、どこかで責め続けてきた。もっと早く連絡していれば。もっと父の様子に気づいていれば。事故を止められたかもしれない、と。


 だが、それは事実ではない。


 報告書を、何度も読んだ。原因は複合的な事故。誰か一人の責任ではない。理屈では理解している。それでも、心だけが納得しなかった。


 影が、一歩、こちらへ近づく。


 胸が痛む。


 「……お前は、俺だ」


 認めた瞬間、霧がわずかに揺れた。


 逃げるな、と影が言っている気がする。

 だが、それは責める声ではない。留まり続けることで、自分を守ろうとしていた声だ。


 父の姿が、霧の奥に現れる。


 顔はない。だが、立ち位置が分かる。父は山へ向かう列の途中で足を止め、こちらを見ている。


 右手が、再び胸元を指す。


 鼓動。


 生きている者の証。


 「……分かってる」


 息が震える。


 影の自分に近づく。

 手を伸ばす。


 触れた瞬間、氷のような冷たさが指先に走る。後悔の温度。凍りついた時間。


 「……もう、いい」


 静かに告げる。


 父は、守った。

 だが、自分は、自分を守れなかった。


 だから、この影は残った。


 「終わりにする」


 強く、手を握る。


 影の輪郭が、崩れ始める。霧に溶けるのではない。自分の胸へと、吸い込まれていく。


 痛みが、走る。


 だが、それは拒絶ではない。

 凍っていた時間が、溶ける感覚。


 17:04が、ただの時刻へと戻っていく。


 霧が、一気に薄くなる。


 銅裏駅の駅舎が、軋む音を立てる。時刻表の数字が、消えていく。17:04の刻印が、白紙に戻る。


 父が、ゆっくりと頷いた。


 顔はない。それでも、確かに頷いたと分かる。


 「……ありがとう」


 声が、自然と零れる。


 父は、もうこちらを見ていない。

 山の方へ向き直り、歩き出す。


 引き止めない。


 今度は、理解している。

 あの行列は、未練を手放した者たちの帰路だ。


 ドアが、鳴る。


 列車が、自動的に発車の準備を始める。


 ホームが、遠ざかる。


 銅裏駅は、霧の奥へと溶けていく。


 最後に、駅名標だけが残った。


 銅裏。


 錆びた文字が、ゆっくりと消える。


 次の瞬間、運転席に戻っていた。


 前方には、見慣れた山の景色。霧は、完全に晴れている。夕陽が、線路を赤く染めていた。


 時計を見る。


 17:05。


 たった一分。


 無線が入る。


 「回送列車、応答願います」


 「……異常なし」


 声は、穏やかだった。


 ポケットに手を入れる。


 ボタンは、まだある。

 だが、ただの金属になっていた。温度はない。特別な重みもない。


 銅裏駅は、消えたのか。


 いや、消えはしない。


 未練が霧を呼ぶなら、またどこかで現れる。

 だが、少なくとも、自分はもう、17:04に縫い止められてはいない。


 列車は、定刻通りに走る。


 線路は、まっすぐ前へ続いている。


 霧の向こうに何があっても、今は、進める。


 父の背中を追うのではなく、自分の足で。


 銅裏駅は、静かに閉じた。

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