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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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銅裏駅 第6話

 霧は、偶然ではないのかもしれない。


 そう思い始めたのは、三日後の夕方だった。山間部の気象データを何気なく確認していたとき、ある共通点に気づいたからだ。銅裏駅に迷い込んだあの日、霧は急激に発生し、短時間だけ異様な濃度を保っていた。気温、湿度、風速――数値だけ見れば、確かに霧が出てもおかしくはない。だが、発生と消失のタイミングが、不自然なほど整いすぎている。


 「……まるで、狙ったみたいに」


 呟いてから、苦笑する。

 誰が狙うというのか。霧を操る存在など、いるはずがない。


 それでも、指先が勝手に過去の記録を遡っていく。父が事故に遭った日。旧銅山跡付近で列車が停止し、視界不良が報告されている。あの日も、霧が出ていた。


 胸が、わずかに軋む。


 事故報告書は、何度も読んだ。原因は、落石と視界不良の複合。父の判断ミスではない、と結論づけられている。それでも、自分の中では、どこか納得しきれないものが残っていた。


 「……父さんも、見たのか」


 銅裏駅を。


 そんなはずはない、と理性が否定する。だが、ボタンが、ポケットの内側で微かに当たるたび、否定は力を失う。


 その日の回送は、再び山間部を通るダイヤだった。偶然にしては、出来すぎている。運転席に座り、エンジンを始動させる。低い振動が、身体を包む。いつもの仕事だ。特別なことは何もない。


 「……行くか」


 自分に言い聞かせ、列車を動かす。


 山へ近づくにつれ、空気が変わる。窓の外の色が、わずかに淡くなる。湿度が上がる感覚。視界の端に、白い揺らぎが現れる。


 霧だ。


 まだ薄い。だが、確実に濃くなっている。


 心拍が、静かに速くなる。

 恐怖よりも、確信に近い感覚。


 「来るのか……?」


 問いかける。

 答えは、ない。


 速度を落とす。規定通りの操作。だが、手のひらに滲む汗だけが、いつもと違う。


 霧は、線路を飲み込み始めた。枕木の輪郭が曖昧になる。信号灯が、ぼやけた光の塊に変わる。無線に、微かな雑音が混じる。


 あの日と、同じだ。


 喉が、ひどく乾く。

 だが、視線は逸らさない。


 「……出るなら、出ろ」


 挑発にも似た言葉が、自然と零れた。

 逃げるつもりはない。あのときは、引き戻された。だが、今は違う。何が起きるのか、見届けたいという衝動が、恐怖を押しのける。


 前方に、影が見えた。


 トンネル。


 この区間に存在しないはずの、暗い口。


 胸の奥が、強く脈打つ。


 ハンドルを握る手に、力が入る。

 ブレーキをかければ、止まれる。引き返すこともできる。


 だが、足は動かなかった。


 霧の奥で、何かが待っている。

 それは、危険かもしれない。だが、同時に、答えでもある。


 列車は、ゆっくりと、影の中へと近づいていく。


 父は、なぜ自分を止めたのか。

 銅裏駅は、なぜ現れるのか。


 その条件が、今、揃おうとしている。


 霧が、完全に視界を奪った。


 そして、列車は、闇の中へと滑り込んだ。


 闇に入った瞬間、音が変わった。


 車輪がレールを擦る規則正しい響きが、どこか遠くへ引いていく。代わりに、低く籠もった唸りが車体の奥から立ち上る。トンネルのはずなのに、反響がない。音が吸い込まれている。


 照明は正常だ。計器も、異常を示していない。だが、前方の景色だけが、現実の法則から切り離されている。


 「……また、か」


 呟きは、震えていなかった。

 恐怖が消えたわけではない。ただ、覚悟がそれを上回っている。


 闇の出口が、淡く白んだ。


 トンネルを抜ける。


 そこに広がっていたのは、見覚えのあるホームだった。


 銅裏駅。


 錆びた駅名標。木造の駅舎。風のない空気。時間が止まったような静寂。すべてが、前回と寸分違わない。


 列車は、自動的に減速し、停止した。


 ブレーキを操作した記憶はない。


 「……迎えに来たのか」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。


 ホームには、まだ誰もいない。だが、霧の奥に、無数の気配が潜んでいる。気づいている。こちらを、見ている。


 ドアが開いた。


 冷たい空気が、車内へ流れ込む。

 それと同時に、ポケットのボタンが、わずかに熱を帯びた。


 鼓動が、早まる。


 降りるか。

 それとも、ここに留まるか。


 前回は、選ぶ前に引き戻された。

 だが、今は違う。


 運転席を離れ、一歩、ホームへ足を下ろす。


 足裏に伝わる感触は、確かだ。夢ではない。霧は、薄く揺れている。遠くで、古いディーゼル車のエンジン音が低く鳴っている。


 「……いるんだな」


 問いかけると、霧の奥で影が動いた。


 顔のない乗客たちが、ゆっくりと現れる。前回と同じ顔ぶれ。時代も服装もばらばらな人々。無言のまま、列を作る。


 その最後尾に、見慣れた作業服があった。


 喉が、ひどく締まる。


 「父さん」


 名を呼ぶ。


 影が、わずかに反応した。


 顔はない。だが、こちらを向いたと分かる。


 数歩、近づく。

 霧が、二人の間だけ薄くなる。


 「……なぜ、止めた」


 声は、静かだった。

 責める響きはない。ただ、知りたいという衝動だけがある。


 父は、ゆっくりと首を振る。


 そして、右手を上げた。掌をこちらへ向ける。


 来るな、ではない。


 まだだ、という仕草。


 意味が、胸に落ちる。


 銅裏駅は、終着ではない。

 ここは、選別の場だ。


 未練を抱えた者が、ここに集う。だが、すべてが山へ向かうわけではない。戻される者もいる。自分は、まだその段階ではない。


 「……俺は、生きているからか」


 問いに、父は否定も肯定もしない。


 ただ、一歩だけ近づいた。


 そして、自分の胸元を指さす。


 心臓の位置。


 脈打つ音が、はっきりと聞こえる。


 生者の証。


 次の瞬間、霧の奥から汽笛が鳴った。長く、低い音。合図のように、行列が動き出す。


 父も、背を向ける。


 「待て」


 思わず手を伸ばす。だが、触れられない。指先が、霧を掻くだけだ。


 父は、振り返らない。


 その背中が、ゆっくりと山道の方へ進む。前回と同じ方向。だが、今回は、自分を引き戻さない。


 選べ、と言われている。


 追えば、境界を越える。

 留まれば、こちら側に残る。


 胸の鼓動が、強くなる。

 ポケットのボタンが、熱い。


 足が、一歩、前に出る。


 その瞬間、ホーム全体が軋んだ。駅舎が、微かに歪む。霧が、濃度を増す。


 限界だ、と本能が告げる。


 まだ、今ではない。


 父の仕草が、脳裏に焼き付く。


 拳を、強く握る。


 「……分かった」


 声は、震えていた。


 足を、引く。


 その選択を待っていたかのように、霧が一気に崩れた。駅舎が遠ざかる。ホームが歪み、光に溶ける。


 気づけば、運転席に座っていた。


 前方には、見慣れた山の景色。霧は、急速に薄れていく。


 無線が、正常な声を伝える。


 「回送列車、応答願います」


 「……異常なし」


 自分の声が、やけに落ち着いている。


 銅裏駅は、消えた。


 だが、消滅ではない。

 条件が揃えば、また現れる。


 そして次は、選択の猶予がないかもしれない。


 ポケットに手を入れる。ボタンは、冷たくなっていた。それでも、確かにそこにある。

 境界は、まだ開いている。

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